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悲しき坤澤の運命⑦
(こんな苦しい思いをするくらいなら、一層のこと……)
いつもそう思うのだが、自分のことを大切に育ててくれた両親を思えば、自ら命を絶つなど翠花 にはできるはずもない。
自分を抱いた男を幸せにできるのに、翠花自身は幸せとはほど遠い所にいる。それが悲しくて虚しくて、仕方なかった。
「湯を浴びたい」
鉛のように重たい体を起こし、床に散らばった着物を拾い集めようとした瞬間。店の中が急に騒がしくなったのを感じる。
「なんだろう……」
翠花ははっきりしない意識の中、喧騒に耳を傾ける。
「ちょっと、お、お待ちください!!」
いつになく動揺した店主の声が店中に響く。
「うるさい狸爺 だな。いいから早く翠花に会わせろ」
「い、いや、しかしですね、翠花はつい先程までお客をとっていたので……」
「そんなの構わん。いいから会わせろ」
「お、お待ちくださいませ!!」
(な、なんだ……)
店主の悲痛な叫び声と共に、足音がドスドスと自分の部屋のほうへと近付いて来るのを感じた。
「誰か来る……まだ客をとるのだろうか。でもただの客なら、こんなに騒ぎにはならないはずだ……」
翠花の鼓動がどんどん速くなる。
ガタン!!
次の瞬間、部屋の扉が勢い良く開け放たれる。その音にビクンと体を震わせた翠花は、思わずギュッと目を閉じた。口から心臓が飛び出るのではないかという位、拍動を打つ。
(……怖い!!)
そう感じた翠花は、無意志に扉に背を向けた。体が冷たくなり震える。そんな翠花のほうに足音はどんどん近付いてきて、ドカッと自分の隣にしゃがみ込んだ。
「お前が、翠花か」
声の主が、そっと翠花の肩に手を置いた。不躾な態度とは裏腹に、自分に触れる手と名前を呼ぶ声は優しい気がする。
「大丈夫だ、怖くない。顔を上げろ」
「…………」
「顔を上げて、その美しい姿を見せてみろ」
なかなか顔を上げようとしない翠花の頭を、まるで幼子をあやすかのように撫でてくれる。悪意の感じられないその対応に、少しずつ体から力が抜けていった。
「翠花、顔を上げるんだ」
「は、はい」
命じられるがまま翠花が顔を上げれば、そこには自分を見下ろす美しい青年がいた。
色素の薄い長い髪は、美しい宝石があしらわれている飾り櫛で綺麗にまとめられている。着物は細やかな絹織りで全体的に上品な鶯色をしている。腰に巻かれた黒い帯には、金色の糸で綺麗に刺繍が施されていた。そんな男が体を動かす度に耳飾りがシャラシャラと音を立てながら優雅に揺れる。
身に着けている全ての物が煌びやかで鮮やかだった。それだけでわかる。この男はかなり身分の高い男だと。
「いい子だな、翠花」
翠花の顔にかかる長い髪を掻き上げながら微笑む長身の男。
(なんて綺麗な人なんだろう)
男は翠花より大分年上だろう。切れ長の目元が冷たい印象を与えるものの、人形のように整った顔立ちに視線を奪われる。形のいい唇をクイッと上げて笑う姿は、まるで勇ましい兵士のようだ。大人の男としての妖艶さも醸し出されていて、まだ17歳の翠花の鼓動が更に速くなっていく。
こんなに美しい男を、翠花は見たことがなかった。
「綺麗……」
「ん?」
思わず呟いてしまった翠花の言葉に、男は目を見開いてからククッと喉の奥で笑う。
「其方の方がよっぽど綺麗だ」
そう言いながら、近くに落ちていた上着を翠花の肩に掛けてくれる。
「あ、あ……も、申し訳ありません!」
今の自分が一糸纏わぬ姿であることを思い出した翠花は、慌てて着物で体を隠した。どこの誰かはわからないが、この見栄えのいい男にこんな汚らわしい体を見られたくなかったのだ。
「翠花」
「は、はい」
男がその名前を呼び翠花が顔を上げた瞬間、唇に温かい物が触れる。
「……え……?」
その温かい物はもう一度翠花の唇と重なり、今度はチュッと強く吸われる。突然の出来事に体を離そうとした翠花の体は、いとも簡単に男の腕の中に捕らわれてしまった。
「はぅ、あ、あん……はぁ……」
無理矢理差し込まれた男の舌の侵入を許してしまえば、それは好き勝手に翠花の口内を犯していく。チュクチュクと音をたてながら舌を絡め取られ、上顎をヌルヌルと舌でなぞられる。そんなことをされている内に、発情が収まったばかりの翠花の体はまた少しずつ昂ぶって行き、吐息もどんどん甘くなっていった。
「あ、あぁ……ふ、はぁ……」
「翠花、気持ちいいか?」
「はい。気持ちいいです……」
「よし、ならば……」
男は突然翠花の体を離し、真正面から向き合った。
男の舌によって少しずつ蕩け始めていた翠花の思考は、一気に現実へと引き戻される。
「俺は新皇帝、魁玉風 だ」
「……新皇帝……」
「翠花、俺の妃となれ」
「え?」
翠花はこの男が言っていることの意味がわからず、大きな瞳を更に見開いて狼狽えてしまった。そんな姿が可愛らしく見えたようで、皇帝と名乗った男が愛しそうに微笑む。
「俺は、今まで幸せという物を感じたことがない」
「幸せ……?」
「そうだ。だから俺を幸せにしてほしいのだ」
「…………」
「翠花よ。俺の妃となり、王宮へ一緒に行こう」
自信に満ち溢れた顔で笑う男を見て、翠花は言葉を失う。
それでも、翠花は感じていた。
自分の人生が、今、大きく変わろうとしていることを……。
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