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危険な誘惑⑧
「ウガッ!?」
醜い悲鳴が聞こえた瞬間、仔空 の目の前が一気に明るくなる。朦朧とした頭で周りを見渡せば、怒りに震えた玉風 が立っていた。
「陛下……」
玉風を見た瞬間、自分を助けにきてくれたんだ……そう感じた仔空は、全身の力が抜けてくのを感じる。すがる思いで玉風を見上げた。
「おい、夏雲 よ……何をしている?」
「あ、兄上……」
どうやら玉風が夏雲の襟首を掴み吹っ飛ばしたようだ。
「その者は、俺が寵愛している人物だと知ってのことか?」
そのまま夏雲に馬乗りになり拳を振り上げる。
「死ね、弟よ」
あまりにも鬼気迫った玉風に、仔空の背筋にゾクッと寒気が走る。このままでは本当に玉風は夏雲を殺してしまうかもしれない。
玉風が自分を助けに来てくれた、そんな喜びは消え去り一瞬で心が凍り付いていくのを感じた。
「なんなんだよ……みんな狂ってる……」
仔空の頬を冷たい涙が伝う。これなら、花屋 で体を売っていた方がマシだったのかもしれない。少なくとも花屋には、血の臭いなんてしなかったから。
「嫌だ、嫌だ……」
スッと血の気が引きカタカタと体が震え出す。意識が遠のいていくのを感じて、目の前が真っ暗になった。
◇◆◇◆
「仔空……」
優しい声と共に、温かなものが喉を通る。口移しで何かを飲まされ、それをコクンと飲み込んだ。口の中に苦い味が広がっていく。
「発情 を止める薬だ。直に体の火照りも治まるはずだ」
「陛下……」
「あのあと倒れたのだ。すまなかった、其方のことは気に掛けていたのだが……」
今も仔空が放つ信香 に影響されているのだろう。玉風の頬が紅潮し、荒い呼吸をしている。
乾元 の本能からか目をギラつかせている玉風が、夏雲の姿と重なって見えた。仔空の体がガタガタと震え出す。涙が溢れ出し、息が苦しくて仕方ない。
「嫌だ! 怖い!」
「仔空……」
「やっぱり僕は乾元が怖い……。貴方達は、僕達坤澤 を物としか見ていないじゃないか!? 子を孕めとか、幸せにしろとか、勝手なことばかり言って……。大体、生まれてからずっと裕福な生活をしてきた皇帝陛下に、体を売ることでしか生きてこられなかった僕の気持ちなんてわかるはずないだろう!?」
そう言って、自分に触れようとする玉風の手を勢いよく振り払った。
「こんな血なまぐさい場所に比べたら、売春宿のほうがずっとよかった……帰りたい、あそこに、帰りたい……お願い、帰して……」
拭っても拭っても溢れ出す涙が、玉風の寝台にシミを作る。
「僕が皇帝陛下を、乾元を心から愛することなんて絶対にない」
「…………」
「皇帝陛下にこのような無礼を働いた僕を、どうぞ手打ちにしてください。お願いですから……」
仔空は玉風に向かい頭を下げる。殺されても仕方ない、これだけの無礼を皇帝陛下に働いたのだから。仔空はもう諦めていた。生きることにも、幸せになることにも……。
「僕は幸せになりたかったし、陛下を幸せにしてあげたかった」
ギュッと拳を握り俯く。
(これで、全てが終わりだ)
目を閉じて玉風の言葉を待った。
「仔空、体は辛くないか?」
「……え……?」
「薬が効けば体が楽になるはずだ。それまでの辛抱だぞ」
そう言いながら、ギュッと抱き締めてくれる。玉風の呼吸は変わらず荒いし、触れ合う体は驚くほど熱い。抱き合う布越しに、昂ぶる玉風自身を感じていた。
「すまない、怖い思いをさせて。だが、俺はお前の傍から離れない。ずっと傍にいるから」
「陛下……」
「少し休め、仔空。目が覚めるまでここにいるから」
「陛下、ごめんなさい。ごめんなさい……」
「構わぬ。それより、今は休め」
仔空が玉風の頬に触れようとした瞬間、ビリビリッと指先に弱い雷に打たれたかのような電流が走る。
(なんだ? 今のは……)
恐る恐る玉風の顔を見上げれば、大きな溜息をつかれてしまった。
「こんなに可愛らしい坤澤を前に我慢している俺の身にもなれ。頼むから早く寝るんだ」
拗ねた顔の玉風を見れば、尖っていた心が丸くなってくのを感じる。
「このまま抱いてくださってもいいのに……」
「今は駄目だ。俺は、お前が皇帝の命令などではなく、1人の乾元として心から番になりたいと思った時……その時がきたら、ここを噛ませてほしい」
優しい手付きで項をなで、夏雲に剥ぎ取られた首輪をそっとつけてくれる。
「でもわかってほしい。俺も、其方だって幸せになれるはずだ。なぜなら、俺は其方といるとこんなにも心が温かい。これが『幸せ』というものだろうか」
「陛下……」
「仔空。俺は其方を慕っているぞ」
自分を愛おしそうに見つめる玉風に、仔空は自ら唇を寄せる。優しく啄んでから静かに唇を離す。いつの間にか、雨露期 特有の体の疼きは消えていた。
「陛下、ありがとうございます」
そう囁いて、もう一度玉風に口付けた。
「作戦失敗、か……」
そんな、甘い時を過ごす仔空は気付いてなどいなかった。自分達に悪意の籠った視線を向ける人物がいたことに……。
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