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冷宮⑩

 仔空(シア)は必死に走る。  ずっと冷宮(れいきゅう)に閉じ込められていたせいで体はなまり、少し走っただけで息が上がる。更に発情(ヒート)した体は気怠く、いつの間にか降り出していた雨が更に体力を奪っていった。   何の光もない道は真っ暗で、一寸先も見ることができない。何度も躓きながら必死に走り続けた。  初めて魁帝国(かいていこく)に来た日に、玉風(ユーフォン)が教えてくれたことを思い出す。皇妃達が暮らす栄華宮(えいかぐう)は帝国の西に位置していて、西には白虎門があるはずだ。後宮に来た日、戸惑いを感じていた仔空を抱き抱え、玉風が魁帝国を見せてくれた。あの日の胸の高鳴りは、今でも忘れることはない。  後宮に嫁ぐということは、皇帝陛下の寵愛を受けるということは、こんなにも苦難が伴うものなのか……。仔空は、今、身をもって知った。 「白虎門から逃げて東の山へ向かえば、陛下に会えるかもしれない」  発情した体は思うように動かず、少しずつ足がもつれる。 「はぁはぁはぁ……栄華宮って、こんなに広いのか……」  どんなに走っても、白虎門は近付いて来てはくれない。それだけではなく、背後からは大勢の人の叫び声や犬の鳴き声も聞こえてくる。 「もう追手が来たのか……」  何とか白虎門まで辿り着こうと走り続けたが、犬の鳴き声がすぐ後ろで聞こえ、仔空は慌てて振り返る。 「ワンワンワンワン!!」   訓練を受けた大型犬に取り囲まれた仔空は、止まらざるを得ない。 「いたぞ! 仔空妃殿下(シアひでんか)だ!」 「捕まえろ!」  香霧(コウム)の命令を受けたであろう家来達の声も近付いてきて、もう後がないことを思い知る。  皇太子を殺した罪で冷宮に閉じ込められた仔空が、香霧をそそのかしたが失敗し、逃亡を企てて最終的に香霧を殺そうとした……そんな筋書きが目に浮かぶようだった。 『仔空』  ふと頭を過る優しい声。 「陛下」  できればもう一度だけ、玉風に会いたかった。  仔空の背後にはサラサラと川が流れている。桜の宮から流れてきた川だろう。かなり深そうだ。 「このままこの川に身を投げれば……」  低い唸り声を上げながらジリジリと距離を詰めてくる犬を刺激しないように、静かに後ずさる。 「陛下以外の番ができてしまった自分に、生きている価値などあるだろうか」  項に手を当てれば、まだうっすらと血が滲んでいる。  仔空の頬を温かな涙が流れた。 「運命の番なんて、やっぱり夢だったんだ」  一斉に犬が飛び掛かってくるのが見える。  ドボンッ。 「これでいい……これでいいんだ」  仔空は川の中に飛び込んだ。 「あ、あれは……」  仔空の体が宙に浮いたとき、暗闇の中にヒラヒラと舞う蝶を見つけた。その蝶は真っ白なのにボウッと淡い光を放っている。あまりにも幻想的な光景に、これが現実なのか夢なのかもわからない。  その蝶に手を伸ばしたものの、スルリと指の間をすり抜けていってしまう。 (あ、逃げられちゃった……)  深い水底に沈みながら、玉風の温もりを思い出した。

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