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【第九章】命に代えても①

「なんだ……?」  予定より早く魁帝国(かいていこく)に戻った玉風(ユーフォン)来儀(ライギ)は、王宮の異様な雰囲気に足を止める。家来たちは真っ青な顔をしながら走り回っており、帰還した皇帝を出迎える、という和やかさはない。殺伐とした雰囲気に、来儀は顔を顰めた。 「なんだ、この有様は! 皇帝陛下がお戻りになられたのだぞ!」 「大変失礼致しました。陛下、来儀様、よくぞご無事に戻られました」  年老いた宦官(かんがん)が青ざめた顔をしながら、深々と拱手礼をする。 「ん? 香霧(コウム)はどうした。あの者が我々を出迎えるべきであろう」 「そ、それは……」 「香霧をここへ呼べ」 「し、しかし……」 「いいから呼べ! 殺されたいのか!」  ピリッとした空気が黄龍殿(こうりゅうでん)を包む。怒気を含んだ玉風の低い声に、その場にいた誰もが体をすくませる。来儀は横目で玉風の様子を窺う。 「陛下、香霧が参りました」  声がした方を向けば、黄龍殿の入り口で拱手礼をしている香霧が立っており、来儀含めその場にいた者達はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間……。香霧の姿に玉風は眉を顰めた。 「陛下、ご無事で何よりです」 「そんなことはいい。一体何があったのだ。その包帯はどうした?」  黄龍殿を訪れた香霧の頭には包帯が巻かれ、明らかに顔色が悪い。玉風の留守中に何かがあったことは一目瞭然だった。 「こ、これは……」 「言え。俺は其方に留守を任せたのだぞ」 「はい。陛下、大変申し訳ありません」  香霧はひれ伏して、床に額が擦れるほど深く頭を下げる。その突然の行動に、玉風は苦い表情を浮かべた。 「……陛下の留守中に、皇太子が殺害されました」 「皇太子が?」 「はい」  玉風はゆっくりと歩を進めしゃがみ込む。香霧の前髪を鷲掴みにし、力ずくで顔を上げた。 「皇太子などどうでもいい。仔空妃(シアひ)はどうした」 「……え?」 「あの者の姿が見えない。仔空妃はどうしたかと聞いているのだ」 「そ、それは……」  皇太子の死をどうでもいいと言い放ち、たった一人の妃の安否を気にかける玉風の言葉に、来儀が目を見開いた。 「もう一度聞く。仔空妃はどうした?」   香霧の顔から血の気が引き、冷や汗が頬を伝う。そんな香霧に、玉風は恐ろしい程に冷たい視線を向けた。 「恐れながら……。皇太子を殺害したのは仔空妃殿下です。そして美麗(メイリン)皇后のお怒りを買ってしまった仔空妃殿下は、冷宮(れいきゅう)に……」 「仔空妃が皇太子を? 馬鹿な……」 「本当でございます。仔空妃殿下は皇太子を殺し、陛下をも陥れようとしていたのです」 「……そんなことがあるわけないだろう」 「仔空妃殿下は雨露期(ヒート期)にたまたま冷宮を訪れた私を誘惑し、こう囁いたのです。『僕が貴方の子を産みますから、2人でこの帝国を乗っ取りましょう』と……」   玉風の射るような視線に、香霧が俯く。玉風のその姿は、共に戦ってきた来儀でさえ怯む程の殺気に満ちていた。 「私は、私は……仔空妃殿下の信香(フェロモン)に当てられて……」  香霧が目に涙を浮かべて玉風を見上げる。 「私は、仔空妃殿下の項を噛みました」 「……項を……?」 「はい」 「今、仔空妃はどこにいるのだ!」  香霧の胸ぐらを掴み、体が宙に浮き上がるほど香霧の体を揺さぶった。体は怒りに打ち震え、頭から湯気をたてそうな勢いである。瞳孔は開ききり、憤怒の歯ぎしりが聞こえてきそうだ。 「我に返り逃げきれないと悟ったのか、白虎門の前を流れる川に身を投げました」 「川に……」 「はい。大変申し訳ございません」 「ふざけるな!!」  「グハッ!」  玉風が香霧の体を蹴り飛ばし、悲鳴が黄龍殿に響き渡る。 「殺しますか?」  来儀が腰に差した大剣にそっと手をかけた。 「香霧は恐らく皇太子を殺し、その罪を仔空妃に擦り付けようとしたのだろう。更に、仔空妃の項を噛み、自ら命を絶つ状況にまで追い込んだ。その罪を考えれば死刑が妥当であろう。だが、今はいい。奴を罰するのは全てが片付いた後だ」 「なぜですか? 今すぐに殺すべきでしょう?」 「仔空妃が悲しむからだ……」 「え?」  言っていることの意味がわからず、来儀は玉風の顔を凝視した。その表情は怒りに満ち溢れているのに、どこか寂しそうにも見える。 「仔空妃は、自分のせいで血が流れることを嫌がるからな。だから香霧の処罰は後だ。それより今は、仔空妃を捜しに行かなくては」 「さ、捜すとは!?」 「川に身を投げたのなら、川を捜す他はないだろうな」  重い甲冑を床に脱ぎ捨てれば、メキメキッと床とぶつかる音がする。乱れた着物を整えながら玉風が声を張り上げた。 「香霧を牢屋へ閉じこめておけ。それから、馬を」 「ま、まさか……」 「そのまさかだ。川に潜って仔空妃を捜す」 「おやめください、陛下! 我々が戻ってから大分時間が経ちました。川に身を投げた仔空妃殿下が生きているとは思えません!」  来儀が玉風の前に立ち、行く手を阻む。 「皇帝陛下がたった一人の皇妃の為に、自ら川を捜索するなんて正気の沙汰ではない。それにもうきっと手遅れです。諦めてください!」 「いや、仔空妃はまだ生きている」 「なぜそんなことがわかるのですか!」 「運命の番だから……」 「は?」 「俺達が運命の番だから……だ。仔空妃に初めて触れた瞬間、指先が痺れた。これは運命の番である証だ。まだ仔空妃の温もりを感じる。だから、必ず生きている」 「陛下……」 「来儀、馬を用意してくれ」  誰も愛すことのなかったこの男の、こんな切ない表情を来儀は初めて見た。 「わかりました。お供します」   大きな溜息をつきながら黄龍殿を後にする。 「なんであんな浅ましい坤澤(オメガ)が、陛下の寵愛を受けるのだ!」  香霧の泣き叫ぶ声が、黄龍殿の外にまで響き渡っていた。

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