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運命の番④
その日は朝から雨が降っていた。雨は夜になっても降りやまず、池に小さな波紋を作り続けている。
少しだけ肌寒くて仔空 は小さく身震いをした。
「こら、まだ本調子ではないのだろう」
「陛下……」
「会いに来たぞ、仔空妃」
後ろから抱き締められて玉風 の着物の中に包みこまれる。この温もりが大好きで、自然と口角が上がってしまう。
しかし、こんな優しい皇帝陛下を独り占めできるのも今日までだということを、仔空は知っていた。玉風は一言もそんなことは話さなかったけど、明日になれば、玉風の新しい皇妃候補達が王宮にやって来ることになっている。そして、彼が気に入る娘がいれば、自分がそうだったように後宮へと嫁ぐことになるのだ。
皇妃候補というくらいだから、さぞや若くて美しい娘たちが大勢集まることだろう。
自分のような身分の低い坤澤 ではなく、立派な乾元 で……玉のように可愛らしい皇太子を産むことだろう。
今の自分にはしてあげられないことを、きっとその人はしてあげることができる。
そして、今の仔空にできることは、玉風を笑顔で新しい皇妃の元へ送り出してやること。
もう決心はできていた。玉風はいつまでも自分だけが独占していい存在ではない。帝国の将来のためにも、立派な人生を歩んでいかなければならないのだ。
――だから今日だけは……。
そう心に決めて玉風の腕にしがみつく。
本当は、玉風とずっと一緒にいたいと思ってしまう我儘な自分をどうにか押し殺しているのに……玉風の顔を見ただけでその決心は簡単に揺らいでしまった。
「陛下、ずっと僕だけを見ていてください」
何度も口から溢れ出しそうになった言葉を飲み込んできた。
きっと自分がそうねだれば、玉風は躊躇うこともなく願いを叶えてくれることだろう。だからこそ口に出してはいけない……仔空はまた言葉を飲み込む。
空は真っ黒な雲に覆われ、雨が強くなってきた。水面に雫が落ちる度にピチャピチャと悲しい音をたてる。
新緑の季節に降る雨のことを翠雨 という。それはまるで、翠色をした仔空の瞳から零れる涙のように感じられた。
「あ、あれは……」
「ん? どうした?」
突然驚いたような声を出す仔空の項に唇を寄せながら、玉風がそっと問う。
「陛下、あそこ……」
暗闇の中、目を凝らすと真っ白な蝶々が飛んでいた。2匹の蝶々は淡く光りながら池の周りを飛び回っている。仲睦まじい姿に目を細めた。
「あぁ、蝶々か」
「はい。とても綺麗ですね」
「本当だ。とても綺麗だ」
2人で肩を寄せ合い、息をひそめて蝶々を見つめる。それはまるで、夢を見ているかのようだった。
ヒラヒラと舞う蝶が、仔空の髪に音もなく止まったから思わず息を潜める。川に飛び込む瞬間手を伸ばしたのに届かなかった蝶が、自分の元に寄ってきてくれた……それがとても嬉しい。
「とても綺麗だ」
「え? 蝶がですか?」
「いや其方がだ。白い蝶がまるで髪飾りのようだ」
「恥ずかしいです」
「其方は本当に可愛らしい」
玉風が顔を綻ばせる。
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