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【番外編】愛しき皇帝陛下①

 仔空(シア)を皇后として国民に披露してから、数週間が経過した。  季節は冬本番。魁帝国(かいていこく)を冷たい風が吹き抜けて、空からは次から次へと雪が舞い落ちてくる。寒さに負けない子供たちが元気に雪遊びをしているようで、楽しそうな笑い声が街中に響き渡っていた。  先日、仔空皇后が懐妊したという正式な発表があり、国中が湧き起こる歓声に包まる。再び活気づいた国民がお祭り騒ぎとなり、寒さなんてそっちのけで魁帝国は賑わいを見せていた。皆が元気な皇太子誕生を待ち侘びているのだ。 「気持ち悪い……これ、いつまで続くんだよ……ウッ、ゲホゲホッ! はぁはぁ……」  近くに用意されている桶に込み上げてくるものを吐き出す。それでも、何も食べることができない仔空はもう吐くものさえなかった。 「苦しい……はぁはぁ……」  吐けば苦痛から逃れられるのではないかと、もう同じことを何回も繰り返している。それでも一向に楽になる気配などない。  火鉢の中でパチパチと炭が燃えている光景をボンヤリと見つめる。部屋の中はこんなにも温かいのに手先は痺れるほど冷たい。  しかし、今の仔空はただ耐えることしかできない。彼のお腹の中に小さな命が芽吹き、すくすくと成長している証拠でもあるこの悪阻(つわり)は、幸せな苦しみでもあるのだから。 「ううッ、気持ち悪い……」  そう頭ではわかっているが、自然と涙が溢れ出した。 「失礼します。仔空皇后。おかげんはどうですか?」 「あぁ、玲玲(リンリン)。すみません、今日も起きられそうにありません」 「そんなぁ! どうぞご無理はなさらないでください」  独りぼっちで苦しんでいるのはとても辛い。時々様子を見に来てくれる玲玲や明明の顔を見ることで、気持ちがふわりと軽くなるのを感じた。  本当は心の底から会いたい人がいるのだが、その人が仔空の元を訪ねてきてくれることはない。自分が身籠ったことを、あんなに喜んでくれたのに……。そう思う度に心が張り裂けそうになる。 「仔空皇后、重湯をお持ちしました。少しだけでも召し上がってください」 「……せっかく用意してもらったところ申し訳ないのですが、食欲がなくて」 「お腹の赤ちゃんの為にも少しは食べなければ駄目です。善蕉風(ぜんしょうふう)先生も心配されていましたよ。もともと華奢な体が、更に一回り小さくなってしまっています。お願いですから少しだけでも……」 「わかりました。いただきます」  大きな目にたくさんの涙を浮かべる玲玲を目の前にして食べないわけにはいかない。仔空は深呼吸をしてから重湯を口に運んだ。温かな液体がとろとろと喉を通っていく感覚と同時に込み上げる吐き気。  ――本当にいつまで続くのだろう。僕だって泣きたいよ。  口元まで上がってくる苦い胃液を、重湯と共に夢中で飲み込んだ。 「よかった、少しでも重湯を召し上がることができて……ホッとしました」 「ありがとうございます」  玲玲に向かって微笑めば、急に唇を尖らせて拗ねた顔をする。 「仔空皇后がこんなに辛い思いをしているというのに、陛下は一体何をしているのでしょうか? 全く桜の宮にいらっしゃらないなんて……」 「仕方ありません。きっと陛下もお忙しいのでしょう」 「でも……」 「大丈夫です、玲玲。僕も子供じゃありません。悪阻くらい一人で我慢できますから」 「そうですか」  まるで自分のことのように悲しんでくれる玲玲は素直で優しい。仔空はそんな彼女にもう何度も救われてきた。 「それから、最近桜の宮の近くで間者(かんじゃ)が目撃されているようです」 「間者、ですか?」 「はい。真夜中になると桜の宮の近くに間者が現れると、王宮中の噂になっています。その者は様子を窺っているものの、なかなか中に入ろうとはしないそうです。それはまるで、遠くから獲物を睨みつける鬼のようだと……」 「なぜ見ているだけのでしょうか?」 「それはわかりません。もしかしたら山賊や、仔空皇后の命を狙っている刺客の可能性もあります。それにもしかしたら、生きた人間ではなく幽霊かもしれませんよ?」 「幽霊……」 「はい。その間者は城の者を見かけると、それはそれは凄い勢いで逃げ去っていくようです。見回りは強化してくれていますが、仔空皇后も夜は出歩かないようにしてくださいね」 「は、はい。わかりました」  玲玲が険しい顔をしながら声を潜めるものだから、思わず息を呑む。幽霊など信じてはいないが、ただ事ではないということは伝わってきた。仔空の背中を冷たい汗が流れていく。  ――お腹の子を守るためにも気を付けなくては……。  まだそれほど膨らみが目立たないお腹をそっと撫でた。

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