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愛しき皇帝陛下②

「苦しい……はぁ、はぁ……苦しい……」  なかなか終わりの見えてこない悪阻(つわり)仔空(シア)は寝台に蹲り必死に耐えた。あまりの辛さに頬を涙が伝い、敷布にしみを作る。 「陛下……なぜ会いに来てくれないのですか? 仔空は寂しいです」  涙はいくら拭っても止まることはなく、次から次へと翠色の瞳から溢れ出した。 「陛下、陛下……」  子を身籠った自分に、玉風(ユーフォン)はもう興味を失ってしまったのだろうか? 好きなときに抱くことができる者のほうがやはりいいのだろうか? 次から次へと嫌な考えばかりが頭を過っていった。 「疲れた……」  何も口にすることはできないし、こんなに吐き気がするのに口から溢れ出るものは唾液だけ。あまりの苦しさに肩で呼吸をする。喉からは血の臭いがした。  体はボロボロで疲れ切っている。意識が少しずつ遠退いていき、気を失うかのように瞼を閉じた。  ――あぁ、これで楽になる。  今の仔空は眠っているときだけが、苦痛から逃れることができる瞬間だった。  突然室内に入り込む冷気に仔空はブルッと身震いをする。寒い……無意識に布団に包まった。 「仔空、すまない」 「……う、ん…ッ…」  扉が静かに開く音がして、寝台がギシギシッと音たてた。すぐ近くに温かな気配を感じ、誰かが優しく背中を擦ってくれている。その大きくて優しい手がとても気持ちいい。  もしかしたら、この人物が昼間に玲玲(リンリン)が話していた間者(かんじゃ)かもしれない。そう思うのだけれど、自分のすぐ傍にいる人物に恐怖心を感じることはなかった。それどころか、優しく背中を擦ってもらうと悪心がすっと軽くなるのを感じる。  ――誰だ、この人は……。  夢心地のままその人物の顔を見ようとしたけど、瞼が下がってきてしまい、それは叶わなかった。 「ゆっくり眠るがいい。おやすみ、仔空」  頬に柔らかいものが触れた。それは温かくてとても心地いい。  ――気持ちいい……。  仔空はそのまま眠りに落ちたのだった。  朝起きると昨日感じた温もりは消えてきた。綺麗に張られている敷布を撫でても冷たい。 「あれは夢だったのだろうか」  あまりの現実味のなさに、一人呟く。しかし、今でもしっかり覚えているのだ。あの大きくて筋張った手や、優しい体温を。  今日は少しだけ吐き気も落ち着いている気がする。ゆっくりと体を起こすと、開かれた障子の隙間から外を窺うことができた。どうも冷え込むと思ったら雪が降っているようで、辺り一面が銀世界に染まっている。  少し前に、冬でも寂しくないようにと、玉風が桜の宮の庭に寒桜を植えてくれた。寒桜は鐘状に下向きで花を咲かせるが、その緋色の花弁が白い雪の中によく映える。  こんな寒い季節に花を咲かせる寒桜の姿に、仔空の心が熱く昂った。  ――僕も負けてなんかいられない。 「母上は頑張りますから」  そっと話しかけてから、お腹を優しく擦った。  桜の宮では、昨夜も間者が出たと皆が噂している。誰もが殺気立っており、落ち着かない雰囲気だ。  間者はどんなに見張りをたて巡視を強化しても、それを搔い潜って桜の宮に侵入するらしい。それはまるで、どこに見張りが居るか? 城の構造がどうなっているのか? ということさえも知り尽くしているかのように思える。もし見つかったとしても、煙のように姿を消してしまうことから「武術においても長けている者なのだろう」と、宦官(かんがん)たちの話している声が聞こえてきた。 「仔空皇后、おはようございます。体調はどうですか?」 「はい、今日は吐き気が少しだけいい気がします。ありがとう」 「よかった!」  仔空が微笑めば、玲玲が嬉しそうな顔をする。しかし次の瞬間、ひどく険しい顔をした。 「昨日も間者が桜の宮に現れたようです。仔空皇后のところには、まさか来ていないですよね?」 「はい。恐らく……」 「恐らく?」 「よく眠ってしまっているので、もしかしたら気付いていないかもしれません。悪阻が始まってから体が疲れてしまうようで、夜は気絶するように眠ってしまうのです。それに、善蕉風(ぜんしょうふう)先生からいただいたお香がいいのかもしれません。あのお香の香りを嗅ぐと、よく眠れる気がします」 「それはよかったです」  悪阻が酷く、眠りが浅かった仔空に善蕉風が白檀のお香を届けてくれた。白檀は心を落ち着かせ、安眠へと導いてくれる作用があるらしい。寝る前にお香を焚いてもらうようなってから、夜も眠れるようになったのだ。  仔空は白檀の香りが好きだ。玉風の寝室からはいつも白檀の香りがした。その香りを嗅ぐと、まるで玉風の傍にいるような気がしてくる。 「会いたいです、陛下……」  目を伏せポツリと呟く。もう長いこと玉風に会っていないような気がする。 「もしかしたら虎視眈々と仔空皇后のお命を狙っているかもしれません。相手は幽霊のような奴です。十分お気を付けくださいませ」 「はい。ありがとうございます」 「本当におやめください! 皇后ともあろうお方が、私なんかに頭を下げないでください!」  玲玲に向かって頭を下げれば、顔を真っ赤にしながら逆にお辞儀を繰り返している。そんな姿が可愛らしくて仔空は声を出して笑ってしまった。

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