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愛しき皇帝陛下③

「今日も間者(かんじゃ)は来るだろうか……」  そっと外を見れば雪は深々と降り続けている。  今は丑三つ時。眠気は一切ない。間者を待ち構えるために、明明(メイメイ)が寝る前に焚いてくれた白檀のお香を消しておいたのだ。 「きっと今日も来る」  来儀(ライギ)たちが巡回をしているらしく、遠くから数人の足音が聞こえてくる。行燈がユラユラと揺れる明かりも見えた。しかし、侵入者は煙のように桜の宮に侵入するらしい。まるで、何もかもを知り尽くしているかのように……。  仔空(シア)には間者の正体に心当たりがあった。昨日閨にやってきた者こそが、皆が噂している間者に違いない。 今日はその者と、正々堂々話をしたいと思っている。間者を迎え撃つ覚悟はできていた。  なんでこんなことをするのか、一体なにが目的なのか……聞きたいことはたくさんある。そっと寝台から抜け出して、ある小さな扉の前に身を潜めた。  この扉は閨の隅にあり、大人であれば腰をかがめなければ通ることができない大きさだ。壁と同じ色をしており、よく目を凝らさないと扉の存在に気付くことはできない。閨で寝込みを襲われたときに、外へと脱出するための非常用の扉だった。  仔空に近しい女中や宦官(かんがん)以外、この扉の存在は知らないはずだ。しかし間者は、巡回をしている家来の配置から、城の構造をすべて知り尽くしている者だ。桜の宮に侵入してくるとしたら、ここからに違いない。  息を潜めてその時を待てば、外からギュッギュッと雪を踏みしめる音がする。  ――来た……。  思わず声を上げそうになってしまったのを堪える。少しずつこちらに向かって近付いてくる足音に、自然と全身に力が籠り心臓が口から飛び出そうなほど緊張してしまう。両手で口を押さえ、息を押し殺した。  ガチャリと外から鍵が開けられる無機質な音が静かな空間に響き渡り、重たい扉が開かれると外の冷たい空気が室内に流れ込んだ。ぬっと大柄な男が室内に入ってきた瞬間……仔空はその人物に飛びついた。 「貴方は何をしているのですか!?」 「こ、こら、離せ!」 「離すものですか!? 陛下!!」  仔空が睨みつけた先にはバツが悪そうな顔をした玉風(ユーフォン)が立っている。ずっと外にいたのだろうか、体は氷のように冷え切っていた。髪についた雪が溶けて、ポタポタと着物にしみを作っている。 「なぜこのような間者の真似事をするのです? 僕の夫であるなら、堂々と正門から入ってくればよいでしょう? 皇帝陛下とあろうお方が、一体何をされているのですか?」 「…………」 「陛下、答えてください」  普段滅多に怒ることのない仔空が顔を真っ赤にして声を荒げる。そんな仔空を見た玉風は、唇を尖らせそっぽを向いてしまった。 「陛下! 答えてくれないならもう絶交です! 一生口もききません」 「ぜ、絶交!?」  「はい。だってそうでしょう? 皇帝陛下とあろうお方が、皆さんの不安をいたずらに煽って平穏な日々を奪うなんて。僕は絶対に許せません」 「仔空……」 「それに、それに……僕がどれだけ寂しかったことか……」  玉風を睨みつければ、相変わらず美しい容姿をしている。髪を伝う雫が、彼を一層妖艶に見せた。今すぐにでも玉風の腕の中に飛びつきたい……そんな思いを、心の中に押し込める。 「陛下に会えなかった僕が、どれだけ寂しい思いをしていたかわかりますか? もしかしたら、陛下の心が僕から離れて行ってしまったのではないかと、ずっと不安だった……」 「はあ? 心が離れるなんてあるわけがないだろう?」 「じゃあなんで、会いに来てくれなかったのですか?」 「それは……」 「それは?」  仔空が玉風の顔を覗き込むが視線を合わせることができない。もどかしくなり玉風に抱き着こうとしたが、強い力で引き離されてしまった。 「……なぜ? なぜですか?」 「すまない、仔空……」  仔空の声が小さく震え、全身から力が抜けていく。その場に崩れ落ちそうになるのを、足を踏ん張って何とか耐えた。 ――もう自分は、この人に愛されていないのだ。  目頭が熱くなり、視界がユラユラと揺れた。 「仔空、すまぬ」 「いいえ、陛下。謝らないでください。僕は大丈夫ですので」  着物の裾で涙を拭い笑って見せる。いつかは寵愛を失う日がくるなんて、覚悟はできていたのだ。こんな立派な皇帝陛下を、自分一人がずっと独占できるはずなどない。所詮仔空は、坤澤(オメガ)なのだから。覚悟はできていたが仔空の心は張り裂けんばかりに痛んだ。 「違う、違うんだ、仔空」 「一体何が違うというのですか?」  子供のように首を振る玉風の頬を両手で包み込み、自分の方を向かせる。顔を上げた玉風が今にも泣きそうな顔をしていたものだから、仔空は目を見開いた。 「仔空よ、悲しい思いをさせてしまい本当にすまなかった。ただ其方から心が離れたなどということはない。寧ろ、其方への思いは膨らむばかりだ」 「じゃあなぜ?」 「其方の姿を見れば抱き締めたくなるから……」 「え?」 「抱き締めて口付けたくなる。そして、その綺麗な体に触れたくなる……」 「陛下、仰っている意味がわからないのですか?」  玉風は仔空の夫なのだ。口付けしようが体に触れようが好きにすればいい。それをどうして ここまで躊躇う必要があるのだろうか。仔空は不思議でならなかった。  

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