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第4話 アントミル
トントントントン……左足で踏み込み、右足はややつま先に重心が偏っている。体重が軽い割には踵からつま先にかけての角度が鈍角になった状態で歩いている。それに、足音に遠慮が無い。その時点で、近づいてくるのが誰なのかは、すぐにわかった。おそらく、このまま声もかけずに部屋のドアを開け、ノックしながら返事を待たずに、無遠慮に寝室のドアも開けるつもりだろう。
「蒼、永心が来たぞ。多分そのまま開けられるけど、大丈夫か……」
隣で眠っている蒼の髪を掬って、その顔を覗いた。いつもよりやや血の気が失せているように見えたのだが、観察しようとするより早く、手首を掴まれて引き倒された。ガイドのトップクラスである蒼の体は、顔に似合わず分厚い。その胸板にボスンと落ちたタイミングで、ドアがガチャっと開かれた。
「鍵崎、果貫、眠れたかー!?」
「おー、部屋ありがとうな。照史おじさんにお礼を言わないとな」
俺は、左耳を蒼の胸にピッタリと密着させたまま、永心と話していた。蒼も、寝ボケたままで俺の髪を梳きつつ、永心を見ていた。
ちなみに、俺も蒼も全裸のままだ。一応、掛け布団はかかった状態。シーツだけだと寒かったからと、蒼が引っ張り出してくれていた。
永心は、一度リカバリールームでケアを受けてから開き直ったようだ。俺たちの家に押しかけてこういうところを見てしまっても、なんとも思わなくなってしまったらしい。おかげで最近、無遠慮な突撃の回数がどんどん増えている。俺たちも、もう今更永心の前では恥じらうのも面倒くさくなっていた。
やたらに元気そうな永心の顔色を見て、ふと思い出した。こいつだって、昨日は具合が悪そうだった。俺よりまだ遥かにレベルが低いのだから、かなりダメージを受けていたはずだ。ケアする側も相当大変だっただろう。
「ところで、お前は大丈夫だったのか? 俺は昨日、回復までに結構時間がかかったぞ。だから蒼はまだ起き上がれてないからな」
「おう。俺も離れで先輩と一緒だったからな。もうすっかり元通り……」
デリカシーの無い永心は恥じらいもないらしく、放っておくとどんなことをしてもらったのかを事細かく教えてくれそうだった。それはそれで面白くていいなと思い黙って話を聞いていたのだが、いつの間にかコーヒーを持って永心の後ろに立っていた野本が、今にも死にそうな顔をしていたので、可哀想になってきた。
永心を止めてやるか……と口を開きかけた時、その野本と目が合った。すると、野本は顔を真っ赤にしてサッと目を背けた。俺は、そういう態度をとる野本の可愛らしさが、本当に好きだ。そして、それを揶揄うのが、日常茶飯事になってきつつあった。
「おはよう、野本。何目ぇ背けてんだよ、社長に対して失礼だぞ」
「す、すみません。おはようございます。ただ、その、お二人とも、服装が……いや、服が無いから……ですね」
野本はゴニョゴニョと口元で言葉を捏ね回している。男の裸なんて見慣れているだろうに、一々恥じらって、いつまで経ってもウブで可愛らしい男だ。
「着てないだけなら大丈夫なんですが、その、そんないかにも事後ですっていう状態ですと……」
「あー、そういうことか。いや、それなら永心に言えよ。俺たちだって見られる趣味なんてねーよ。コイツが勝手に入ってきたんだから」
「あ、そうですね、申し訳ありません……」
慌てて頭を下げている野本を見ながら、永心はポカーンとしていた。本当にコイツのデリカシーの無さは一体誰に似たんだろうか。
照史おじさんは仕事では非情な人だとよく言われていた。俺もかつてはそう思っていた。でも、野明の事件後から見せる思いやりに溢れた姿が、きっと本当の姿なのだろう。
気遣い、思いやりに溢れているおじさんと、永心の雑さは似ても似つかない。時々、永心は本当にセンチネルなのかと疑いたくなるほどだ。
「お前のその雑なところって、おばさんに似てたのか?」
永心は一瞬ピクリ、と動きを止めた。その動きにややひっかかるものがあったが、本人がなかったことにしようとしているので、俺もそこは追求しないことにした。
「どうだろうな。俺は母さんに似ているかどうかもわからないくらい、話してない気がする。会話はしていたし、優しい人だった。でも、これと言って特徴がないというか、『母さんらしさ』がなんなのかは、よくわからないな。躾とか身の回りのことは、ほぼ池内の人間がやっていしな」
そう言って、カプチーノを口に含んだ。それをゴクリと飲み込むと、鼻から息を抜いた。他に気になることがあったとしても、シナモンの香りを楽しむことは逃したくないらしい。そういう永心らしさが出ているうちは、あまり心配しなくても良さそうだ。
ただ、ズ……と音を立てたかと思えば、また一点を見つめている。コイツがこんなにも何かを気にしているなんて、とても珍しい。永心がレイタントからセンチネルとして覚醒しそうで戸惑っていた頃以来だろうか。
「鍵崎、果貫、今日はこのままうちの連中と朝食会に出てもらっていいか? その場で父さんから話があるらしいんだ」
「照史おじさんが昨日言ってた、お前たちの出生の話か?」
永心はこちらへ振り返ると、コクリと頷いた。まるで、この世の終わりが来たような顔をしていた。それを心配した野本が、コーヒーを持つ手を変え、空いた手で永心の手をきゅっと握った。
野本の突然の行動に永心は驚いていたが、その手から野本が伝えているものが、永心の心の綻びを直していくのが見えた。
「でもお前、それに関してはおそらく半年前の事件に関わった人間なら、みんな予想はついているだろう? 今日は、おじさんの口から正式に語られるっていうだけの話じゃないか。なんで今更、そんな顔をするんだ?」
永心は視線を床に固定したまま、野本の手をぎゅっと握りしめた。眉根を寄せて辛そうにしたかと思えば、野本はそれを感じ取ったらしく、泣きそうな顔をしていた。
「永心、もしかして、自分のして来た事を後悔してるのか?」
横になっていた蒼が、ゆっくりと体を起こして俺の隣に座った。じっと永心の目を見据えたまま、その答えを待っていた。しっかりと見つめるその視線には、深い愛情が籠っているのがわかった。永心も蒼の視線からそれを感じ取ったらしく、安心したように体の力を緩めると、ゆっくりと頷いた。
蒼は「まあ、そうだろうな」と言うと、「知らなかったんだ。仕方がないだろう?」と優しく微笑んだ。
「照史おじさんからお前に対して、よくない感情が出た事は無い。お前はセンチネルとして覚醒したのは最近だ。だから昔のことはわからないだろう? でも、俺がこれまで見てきた照史おじさんは、お前に対して悪い感情を持った事は無かったぞ。そして、俺はずっとそれをお前に伝えていたはずだ」
俺がそう言うと、永心は心底以外そうに「そうなのか?」と目を丸くしていた。見えない人間にとっては、そうなのだろう。
でも、俺には人の好意は形として目に見えることが殆どだ。照史おじさんが永心と対面している時にはいつも、淡くて優しい色合いに輝く雲のようなカタチのものが見えていた。
「それを伝えても、お前は家と距離を取りたがってたんだ。それくらい、辛かったんだろう? 悪いことをしてきたわけじゃないんだ。気に病むな。それと、おじさんのお前に対する厳しさがなんなのかをずっと考えていたんだけれど、半年前の事件がきっかけでわかった気がするよ」
すると、それまで大人しくしていた野本が口を開いた。ガイドとしての、自信に満ちた一言だった。
「永心が池内の能力を濃く継いでいることに、気が付かれていたんでしょうね。だから心配でならなかった。俺みたいなレベルの低いガイドだって、永心がレイタントであることに一瞬で気がついたくらいでしたから」
「俺もそう思ってる。澪斗さんも晴翔さんもガイドだろ? 和人くんもガイドだったよな? お前だけがセンチネルで、しかも池内はレベル0だ。受け継いだ子供がどんな苦労をさせられるかなんて、照史さんが一番わかってたはずだ。だから、強い子にしたかったんだろうな」
永心は、小さく震えていた。俺の目には、小さな永心咲人が泣いている姿が見えた。俺はこれまで、その口から何度も聞いていた。俺には理解も同情もしてあげることの出来ない、永心の苦しみの言葉を、本当に何度も聞いていた。
『父さんも、母さんも、俺はいらないんだ。頭が良くて優しい澪斗兄さんが後を継ぐし、頭が良くて研究熱心な晴翔兄さんが新しい道を開いてくれる。でも、俺には何も無い。本当は女の子が欲しかったはずだ。だから俺のことを見てくれないんだ』
永心は寂しいと言ってよく泣いていた。ただ、それは俺の前だけだった。俺たちは、育ちが全く違うのに何故かウマの合う友人同士で、唯一心の開ける相手だった。問題だったのは、親のいない俺には、両親がいるにも関わらず寂しいという気持ちが起きるということを、本当の意味で理解する事が出来なかったということだった。
話を聞いてやることは出来たけれども、慰めることも癒すことも出来なかった。だんだんと永心は照史おじさんを恨み始め、修学旅行前のおばさんが急に姿を消してしまった時期に、それは取り返しのつかないものへとなった。私立中学の寮に入ったのをきっかけに、家に全く寄り付かなくなってしまった。
おそらく、そのことを後悔しているのだろう。
「俺、父さんのことが大好きだった。俺の方を見て欲しいと思い続けるのは辛かったから、諦めようとしたんだ。そのためには距離が必要だったから。それなのに、俺に対してのあの厳しさが深い愛情故のことだったなんて……それじゃあ俺はただ酷いことをしただけってことになるじゃないか。そんなのどれだけ謝っても謝りきれないだろう?」
また、永心は寂しくて泣こうとしていた。ただ、今はその永心を支える役目は俺じゃない。隣に立つ野本が、永心の背中にそっと手を回してくれていた。雑な男は泣き方も雑で、ボロボロと涙を流してはグスグスと鼻を鳴らしている。スーツには涙の滲みがたくさん出来ていた。
「あーあーあー、お前、それたっかいスーツだろ? 泣くならハンカチかタオル持って来いよ……」
永心は、冷たくあしらう俺に向かって「うるさい」と一言投げつけると、さっと差し出された野本のハンカチに顔を埋めて泣いていた。レベルゼロ達のやることに、子供が太刀打ちできるわけがない。後からそれを知った子が、後悔することまで考えてのことだろうと思うのが妥当だ。
「こうなることを踏まえた上でも、お前達に母の名を明かす事が無かった理由が、他にもあるはずだよな」
「そうだな」と言いながら、蒼が俺に抱きついてきた。その大きな体にぎゅっと抱きしめられると、すうっと心が落ち着いていくのがわかった。多分、バレてるよな。永心の寂しさを埋める役割を野本にとられたって、ちょっと思ってしまったこと。
そう思っていると、蒼が頬を寄せてきた。スリスリと頬擦りされて、俺は胸がぎゅうっとなるのを感じた。いつでも足りなくなった部分にすぐに気がついてくれる。ガイドとしては当然なのだろうけれど、俺に興味を持ち続けて、それを満たそうとしてくれるのが何よりも嬉しい。
「永心。過去を知っても、そこだけに意味を見出し続けるな。お前はこれからを生きていく人間だ。先を見ていくんだ。俺たちと」
照史おじさんと野明未散は、連綿と続いてきた狂ったアントミルに巻き込まれた被害者だ。政治家の後継は、名家の子女と結婚せねばならない。惚れた女がいい家の出でなければ、囲えばいい。でも、子供を造られたら困るから、とりあえず男になって来い。そんな狂った考えの中に落とされた。
池内家の人間は、男性しかいない。永心家本家の人間が囲った、愛人達だ。第1性を奪い、自分の隣に置いておくことで、お互いに幸せになったと思い込んで来た。方向感覚を失って、ぐるぐる回り続ける蟻達は、力尽きて死ぬまでその渦から逃れられない。
おそらく、照史おじさんと野明未散は、自分たちのような思いを子供にさせたく無かったのではないだろうか。だから、どんな手を使ってでも自分たちの仲を繋いでおきたかった。
疑問なのは、何故多英おばさんが協力したのかと言う事だろう。あの三人がやってきたことは、簡単なことではない。並々ならぬ覚悟があったはずだ。そして、その答えを知っている人は、おそらく照史おじさんだけだろう。
「それに、ここで悩んでも答えは出ないからな。大人しく照史おじさんの話を聞いてから考えようぜ」
そう言って、俺は冷めてしまったカフェオレを一気に飲み干した。
開けていた窓から、アミノ酸と糖が加熱されて出来る香りが、数種類漂ってきた。フェニルアラニンかグルタミン酸か……多少の違いはあれど、それらが還元糖と加熱されることにより発する香りは、とても食欲をそそる。どれほど悲しいことがあっても、その香りを嗅ぐと幸せが少し取り戻せるような気がするくらいに、中毒性がある。大事な話をしようとしている永心の腹がぐーと音を立ててしまうほどに、破壊力もある。
「まあ、とりあえず朝飯いただきに行こうぜ」
俺はそう言って振り返った。それを待ち構えていたかのように、蒼が俺にキスをして「オッケー」と返してきた。
そのキスにまた俺が返していると、俺たちの上に乗っていた布団が下に落ちていった。
「あ」
もちろんまだ服は着ていない。そして、俺は対面座位に近い格好をしていた。
「ちょっ……!」
それを見て、野本が真っ赤になって逃げて行った。
俺たち三人は、それを見て腹を抱えて笑った。
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