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第8話 約束
「追わなくていいのか?」
田崎は、蒼が出ていったドア付近まで飛び出したものの、その場に立ち竦んでしまった俺に声をかけた。そして俺の隣に並ぶと、蒼が走って行った方向を向いたまま「受け入れるしかないってことくらい、あいつだってわかってるだろう。しばらく待ってやれよ」と言うと、ポンポンと俺の肩を叩いて会議室へと戻った。
「鍵崎、本当に大丈夫か? 今起きている事件は、センチネルはほぼ死亡しているぞ。まあでも、お前とじゃレベルが全然違うから、どうなるかは正直全くわからないけれどな」
永心が珍しく俺のことを気遣っていた。野本に至っては、いつ泣き出すのかと心配になるくらい、悲しそうな顔をしていた。もちろん、俺だって軽く考えているわけでは無い。正直なところ、出来れば断りたいとは思っている。
ただ、そうは言っても、これは警察からの依頼というよりは、政府からタワーを通しての依頼だ。断ると会社の存続が危うくなるのが目に見えている。
それに、生きづらいセンチネルを守るために始めた会社で代表をしている俺が、彼らを見捨てるという選択肢だけは、どうしても取りたくは無かった。
「流石に大丈夫とは言い切れないけれどな。ゾーンアウトして蒼のケアが効かなかったら、俺はそのまま死ぬだろうから。でも、センチネルもガイドもこれまでこんな事件が起きたことは無かっただろう? と言うことは、明らかに原因があるはずだ。突然変異とかなら、解剖でもすればわかるだろう? それがわかってないと言うことは、何か外から与えられた要因があって、亡くなった時にはそれは消えているってことだ。まるで魔法だな」
それを聞いて、永心がクスッと笑った。田崎と野本は、この状況で永心が笑っていることに驚いて、目を丸くしていた。ただ、俺は永心が笑っている理由に思い当たる節があった。永心が今思っていることを、俺自身も思ったからだ。
「お前、それ半年前の事件でも言ってたな。『無かったものが急に現れたってことか。まるで魔法だな』って」
固まりきれていないエポキシ樹脂が、壊れたマメントから漏れ出て、固まるのに3日という時間を要した。最初に現場検証に行った時には無かった「割れるもの」が、3日後にはそこに急に現れた。そのことを俺は「魔法だな」と言ったのだった。
今回も似たようなものだ。体に何の変化も無いのに、急にケアが無効になる。ガイドがストレンジャーになったのならまだしも、ガイド側の能力に変化は無い。センチネルがゾーンアウトしやすくなっているということだけが異変だった。
「そもそも、俺は人よりゾーンアウトしにくい。トレーニングも続けている。そこをアドバンテージだと思ってやるしか無いだろう」
三人は、ともにやや俯きがちになりながら、「そうだな」と言って苦笑いをした。俺も話しているうちに、だんだん覚悟が決まってきた。これは俺にしかやれないことだ。正式に依頼が来たら、やるしかない。
神妙な面持ちで先のことを考えていると、ふと田崎が何かに気がついたようで、永心に尋ねた。
「高レベルのセンチネルはコントロールに長けているんだよな? じゃあ、亡くなったセンチネルたちはレベルが低かったと考えるのが自然だろう? 実際どうなんだ?」
「大半はレベルが低かったな。レベル1〜5の者が殆どだった。だから俺はギリギリ捜査に加えてもらえてるんだ。レベル5までのセンチネルは捜査から外された」
「お前はレベル6だったな。でもギリギリじゃないか。捜査中、気をつけておけよ。野本、出来るだけ一緒にいるようにしておけよ。社長命令な。出来れば一緒に暮らして欲しいんだけど。まだ無理なわけ?」
「いっ!?」
同僚でペアであれば同棲していてもおかしくは無いのだが、なぜか野本は永心と同棲しようとはしない。それが奥手だからと周囲は言うのだけれど、俺は野本の思考の中にそれ以外のものが存在することには気がついている。
ただ、誰かが意図的にそれを隠しているようで、そのことに関してはまだ見抜けていない。俺が見抜けていないと言うことは、かなり慎重に隠されている事実があるはずで、それは知らない方がいいことである可能性が高い。だから、今は無理に聞かないことにしている。
俺は、真っ赤になっている野本を横目に見ながら、タブレットの画面をスワイプして行った。この半年で飛び出しによる事故でのケガが17件、死亡事故が5件。どちらも例年の5倍以上だ。異様な増加であることは間違いない。
それに、そもそもこの街にそんなにセンチネルがいたかどうかすら怪しい。そのことを考えても、何かが起きているのは間違いなかった。
「田崎、タワー所属のセンチネルのリストにアクセス出来るようにして貰ってくれ。数年分のデータを見て、異変がないかどうか調べる。俺がみる前に、大体のリサーチかけてくれると助かる。それと……」
「明日は社長も副社長もお休みということで、承知しております」
そう言いながら、俺の手にチョコレートブラウニーの箱をドンと乗せた。
「これ……」
それは、甘いものをあまり食べない蒼が、これなら食べられると好んで食べるブランドのものだった。さっきスタッフが入ってきて何か渡していたと思ったが、わざわざこれを頼んでくれていたのだろうか。俺は田崎の優しさに、ぽわんと胸が温かくなるのを感じた。
「一緒にこれ食べて、これ飲ませて、しっかり抱き合っとけ」
そう言いながら、今度は掌サイズのブランデーの瓶を載せてきた。それは、俺と蒼が一緒に暮らし始めたきっかけになった銘柄だった。これを飲んで酔った蒼が求愛し続けたから、今の俺たちがある。一人であることを強みにして、いつも命を投げ打って働いていた俺が、初めてペアを持つことを考えた時に出会った酒だ。
確かに俺はこのことを田崎に話した。でも、おそらくこの10年で一度だけのはずだ。本当に記憶力がいい。そして細かい気遣いが素晴らしい男だ。
俺が田崎へと視線を移すと、田崎は苦しそうに微笑んでいた。
「過去を慈しんで、今を楽しみ、未来を夢見る。それが出来るのは、奇跡だからな。必死でそれを守り通せよ」
そう言って、田崎は右の耳に髪をかけた。そこには、3センチほどの傷跡がある。さほど大きくはないが、深さがあったようで消えないままなのだという。その傷をつけたのは、田崎の母だ。その傷を指先で軽く擦りながら、田崎は遠い目をした。
「お前、この事件どう思ってる? ゾーンアウトして亡くなるセンチネルが多発するなんて、普通じゃ無いだろう?」
俺が問いかけると、田崎は傷に触れながら「あんな状態で亡くなる人がたくさんいるなんて、想像したくないな」と呟いた。
ゾーンアウトして発狂した母親が、ナイフを持ったまま暴れていたのを止めようとして切り付けられた。結局止めることができずに、田崎の母は飛び降りて亡くなった。今起きている自殺騒動と同じ亡くなり方をしている。
しかも、田崎は婚約者もゾーンアウトで亡くしている。婚約者だった七山玲香さんは、ペアだったガイドが行方をくらませてしまっていて、ケアを受けられずに亡くなった。その時、田崎は晴翔さんと一緒にアメリカに出張中で、最後に立ち会うことすら出来ていない。
「仇討ちじゃ無いけれど、俺が解決するくらいの気持ちで情報収集と分析はする。お前は、潜入とデータチェックを頼むよ」
そう言って寂しそうに笑うと、署へ戻る永心と野本を連れて会議室を出て行った。
◇◇◇
事務所と上階の自室を繋ぐ階段の踊り場は、明かり取りの窓がまるでストライプのように景色を切り取っている。いつの間にか外は真っ暗になっていて、空気が冷えたのか襟元を押さえて歩く人が小さく見えていた。
俺は階段を足早に駆け上がると、カードキーをかざしてドアを開けた。カードキーだけで開く時は、誰かが中にいるときだ。二人とも外出している時は、指紋認証の後にカードキーを使用しての開錠が必要だ。
ドアを閉め、自動ロックに合わせてサムターンを一つ回し、U字ロックをかけた。この家のセキュリティとしては、もう一つ画像解析による不審者侵入チェックがあって、それは事前に登録していない人物が室内に侵入すると、スタンガンのように放電されて気絶させられるようになっている。
ただ、さすがにこの家に来てそんな目に遭おうとするものはなかなかいないので、今のところ使用したことはない。事務所のあるフロアからはノーチェックで上がれるが、その出入りをするための場所に辿り着くまでのセキュリティが万全だからだ。
その鉄壁とも言えるセキュリティを超えて、ノーチェックでベッドルームまで辿り着けるのは俺たち二人だけだ。その安心できるはずの部屋のドアが、無防備に半開きになったままになっていた。そこからベッドの上までが見通せて、革靴を履いたままスーツ姿で倒れ込んでいる蒼が見えた。
「蒼? どうした?」
俺は室内の音を確認した。この室内に、備え付けの電子機器の出す動作音の他には、人間一人分の呼吸音しか聞こえない。この部屋にいるのは蒼だけで間違いない。そしてその呼吸音は、やや浅い。呼気はいつもより湿度を帯びていて、不自然に音が消えていく。どうやら酒を飲んで眠っているようだ。しかも、音の消え方からすると、うつ伏せに寝ているみたいだ。放っておくと危ないかもしれないと思い、ドアを開けて寝室に入った。
蒼は、ベッドの上で子供のように丸くなって眠っていた。
カーテンが開いたままになっていて、月明かりに蒼の顔が照らされていた。艶のある黒髪と、青白くなった顔がぼんやりと幻想的に見える。長いまつ毛は揃って伏せられていて、その下には厚みのある唇からスースーと寝息が漏れていた。
思ったよりも穏やかに眠っているので、起こさないように静かに近づいて行った。そっと手を触れてみるけれど、全く起きる気配がなかった。酒を飲んだようなのだが、ここに酒瓶は無い。というより、部屋に酒の匂いがしていない。どこかで飲んできたのだろうが、蒼がこんな姿になるまで酒を飲む相手が、俺以外に思い浮かばなかった。
「どこ行ってたんだ? 心配したぞ」
夢の中でもいいから聞こえてくれないかと、微かに聞こえるように耳元で声をかけた。深く眠っていたようだったが、俺の声が聞こえたのか、くすぐったかったのか、きゅっと眉根を寄せて唸り声を上げた。それでも目は覚めないらしく、再び眠りに入った。
「一緒に飲もうかと思ったけど、寝顔見ながら飲ませてもらうか」
田崎からもらったブラウニーとブランデーをヘッドボードに置いて、蒼の綺麗な黒い髪を手で梳いた。その手触りを一通り楽しんでから、俺はシャワーを浴びに浴室へと入っていった。
スーツを脱ぐと、クリーニングケースに入れた。俺はスーツに匂いがつかないように、毎日クリーニングに出している。いつも極力、自分の痕跡は残さないようにしているからだ。
特に今日は永心家から帰ってきたばかりなので、この匂いから俺の人間関係を探られると困るから、早めにクリーニングしてもらう約束をしている。ケースを指定の場所へ押し出し、浴室へと入って行った。
ざあっと音が耳を覆うくらいの水量のぬるめのお湯で、長い間首を温めた。体が冷えると思考が悪い方へ偏りがちだ。体を温めてじっくり考えようと思っていたので、目を閉じて視界を遮断した。
シャワーヘッドから落ちてくる水音は、たくさんの帯域を含んでいて、聞いているだけで気持ちがほぐれる。今や常識となりつつある、ホワイトノイズの癒しを俺も受け取ろうとした。
この半年は、危険な仕事はそうなかったのだが、精神的に疲労が溜まりやすかった。傷つけたく無い誰かが傷ついていくのをみることがとても多かった。
蒼と付き合い始めるまでは、未来への漠然とした不安に立ち向かう必要がある時に、いつもこうやってシャワーの音を聞いていた。
——今はいつでも蒼に頼ってるな。蒼がいないと、もう……。
そうやって水音だけに集中していると、突然ぐいっと腕を掴まれ振り向かされた。耳は水音に集中していたので、他の音からは意識が逸れていた。ここは安心できる場所だから、一旦集中を切るとあまり早急に回復させることがない。
振り返ると、スーツで靴を履いたままの蒼がいた。
俺をじっと見つめると、そのままシャワーの中へ入ってきて、きつく抱きしめた。
「蒼、濡れるぞ。それにお前酒飲んで……」
「愛してるよ、翠。お願いだから……」
そこまで言うと、俺の唇を塞いで覆い被さってきた。ただ、それは意図しないことだったようで、俺を潰すように前のめりに倒れると、そのまままた眠りについてしまった。
蒼が眠ってしまったら、俺はよほどのことがない限り動かすことはしない。筋肉量の多い蒼を運ぼうとするには、かなりの力が必要になる。必要無い時に体を痛めることはしないようにしているので、抱き合っていれば済むのであれば、そうするのが一番いい。
「せめて浴槽にお湯張っておくか。酒が回ったら危ないから少しだけな」
壁に寄りかかり、蒼を抱き上げた。そして、上からシャワーを落としたまま、浴槽にお湯を溜めていった。座った状態で半身浴程度のお湯を貯めると、蒼をバックハグして目を閉じた。
蒼の肌が温まり、香りが立ち昇る。ゆっくりキラキラとした光の粒となって、俺の顔近くへと舞い上がってくる。俺はその光を吸い込み、身体中に回す。たどり着いた場所から、少しずつ回復していくのがわかった。こんなことすらケアになるほど、俺は蒼を愛している。
「なあ、蒼。俺はお前を悲しませるようなことを、好んでしたりしない。大丈夫だ。俺は特級パーシャルランク10だぞ。インフィニティのすぐ下のランクは、世界に三人しかいない。そのうちの一人だ。必ず真相を解明するから、また安心して暮らそうな」
——俺たちは、お互いしかいない。絶対にお前を一人にはしないから。
昼間に俺が伝えたのは、それだけ。でも、俺たちにとってこれは大事なことだ。
家族のいない俺たちが、出会い、再会し、一緒になって生活している。
センチネルとガイドだから、同性でも結婚が許されていて、公私共に正式なパートナーだ。ただ、家族はこれ以上増えないし、増やす予定も無い。
二人だけ、ずっと二人だけだ。
「孤独なんてもうお腹いっぱいだろ? だから、絶対一人にしない。俺とお前の一番の約束だっただろ?」
そう言いながら蒼の首筋を啄んだ。「ん……」という返事と共に、またふわりと香りが立ち上った。そして、ぱちっと目を開けた蒼がポツリとつぶやいた。
「翠。愛してる。お願いだから、俺も連れて行って。最後まで一緒がいい」
俺は一瞬驚いた。蒼が自分から連れて行ってくれと行ってきたことは、今まで一度もない。俺は危険な現場には一人で行き、蒼はケアの時は一人で行く。暗黙の了解だったように思う。その蒼が……
「一緒に行きたいのか? ガイディングが無効だった場合、目の前で俺は死ぬことになるぞ」
そんなの、蒼が深く傷つくだけだろうからと思って言わなかった。それなのに、蒼が自分からそれを望むなんて、信じられなかった。
「わかってる。それでも行く。センチネルとガイドは、辛いことは分け合うんだ。ずっと二人で一つだよ」
ぼんやりとした目のままだが、しっかりとした口調でそう言い切った。それを見ていると、悲しみなのか喜びなのかよくわからないが、とてつもなく大きな感情の波に襲われた。
「お願い。翠」
蒼がもう一度強請った。俺はそのずぶ濡れのスーツの男を力いっぱい抱きしめると、深いキスを送った。体の中から魂が抜け出そうなほどに吸い上げると、パッと唇を離した。そして、覚悟を決めた。
「わかった。蒼、俺たちは死ぬ時も一緒だ」
俺がそう告げると、蒼はふにゃりと相好を崩した。
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