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第9話 俺たちに不可能はない

「よし。じゃあ、とりあえずこの話は終わりな。依頼が来るまではいつも通りに働くこと。で、お前、そのままじゃスーツダメになるぞ。とりあえず脱げ……おわっ!」  蒼はシャワーのお湯を頭から被りながら、タックルするように俺に抱きついていた。もうほぼくっついたような状態だったからか、倒れはしたもののそれほど勢いがつかなかったため、浴槽に背中がぶつかっただけで済んだ。  ただ、触覚の遮断もしていなかったのでいつもよりもぶつかった時の痛みが酷かった。思わず俺は「うっ」と呻き声を漏らしてしまった。 「ごめんっ! 大丈夫? 痛かっただろ? 感覚遮断してなかったよな、俺来ると思ってなかったもんな? ごめん、本当に」  蒼は慌てながらも俺の背中に手を回して、いつもより力は弱いものの、ぎゅっと抱きしめた。そして、ややかすり傷のできた箇所に手のひらを当てて確かめると、俺を後ろから抱き抱えるように座り直した。背中の傷の修復をするようだ。 「ちょっと沁みるかもしれないけど、我慢して」  蒼が傷口に唇を当てがうと、背中にチリッとした痛みが走った。かすり傷に口をつけるなんて医学的には御法度だろう。そういう意味では俺たちは人間ではなくなっていると考えられるかもしれない。  ペアがお互いに高レベルだった場合、多少のケガならガイドの体液で治せるからだ。ミュートだって昔は傷口には唾液を使っていたこともあっただろうから、それと似たようなものだと思えばいいんじゃ無いだろうか。  小さな痛みが消えると、今度は唇よりも熱くてぬるっとした感触が背中を伝っていった。そのままスリスリと傷の周辺を這うように滑らせていく。小さな傷だからか、舐めるとすぐに表皮が元に戻って行った。それは見なくても、むず痒い感じで俺にも伝わった。  皮膚が元に戻れば、痛みが無くなる。舐められるタッチだけを感じるようになると、だんだんそれは違う刺激へと変わっていった。 「ン」  浴槽の縁に身を乗り出して、肘をかけたまま蒼に背中を舐められている。だんだんと痛みは消え、こそばゆい感覚へと変わり、それは腹の底に熱が溜まる刺激へと変化していった。  脱力した肉の塊がソワソワと背中を這うと、だんだん胸を前に突き出していってしまう。触られてくてたまらないことを、体が素直に表していた。  そうやって熱くなった体はやや弓形に反り、快楽が抜けきれない事に焦れて、俺は身を捩った。 「ん……ちょ……っと」 「なに?」  蒼は気づいているのかいないのか、今は背中の傷にグッと舌を押し当てていた。そうしていると口の端から唾液が次々と滴っていくのか、時折それをジュルっと吸い上げている音が鳴り響く。 「やあんっ」  それは。俺の耳を殊更に卑猥に刺激した。傷の手当てを受けているだけなのに、だんだん熱は全身に周りつつあって、俺は頭がふわふわしてきた。 「はあ……あ」  ガイドがセンチネルの肌に触れていたら、隠し事は出来ない。触れている部分から、俺の欲望は全て蒼にバレている。気づいているはずなのに、舌は傷から動かさないし、手もどこも触ってくれない。肌にまでどんどん熱が回っていく。 「んう……ん……あ!」  蒼は腰を抱きしめていた手をするっと上に持ち上げて、胸の先端に少しだけ触れた。その二つが触れ合った瞬間、強烈な期待が胸に沸いた。聞いたこともないほど大きな鼓動が、体の中で暴れ回っていた。  蒼の手はまだ肌を滑っていた。ただ今度は全身組まなく滑らせてくれていて、脇腹から前へと指が這うと腰が勝手に期待してびくびくと揺れた。 「気持ちいいの?」  手が首筋を滑るとゾクゾクと体が震え、堪らず俺は嬌声を漏らす。今度は無防備に開いた反対側の首筋に、傷の手当てに活躍した舌が勤めのご褒美を求めてやって来た。その舌が肩口から耳まで通り抜けると、俺の口から「ひあっ」と声が漏れた。  さわさわと身体中を蒼の手が這い回る。触れるか触れないかの境界に、違う生き物同士でしか産むことの出来ない快楽物質が生まれる。それがボンディング済みのカップルであればどうなるか。ただ摩るだけで、白い飛沫が上がるほどに気持ちがいい。 「うぐ……ン、あっ」  孤独だった俺の人生に、深く入り込んで寄り添ってくれている蒼。いつも俺のことを一番に考えてくれている蒼。俺の、蒼。あんなに辛そうな顔をさせてしまうなんて、俺はパートナー失格だ。  会社を始めた時から、いつかは命を落とすだろうという覚悟を決めてやってきた。ただ、この辺りのセンチネルは、捜査協力に入る事件のほとんどが現場検証だ。時には潜入もするが、遠見や盗聴の類が仕事の九割を占めていた。だから年々、命の危機を感じるような仕事が実際に入るという事は無くなったかのように思っている節はあった。 「ねえ、翠」  蒼は俺の耳朶を甘噛みしながら、乳暈を指でなぞり、もう片方の手は中心の先へと向かってすうっと滑らせていた。 「あっあっアッ……ン!」  先端を指先でくるくると擦ると、ぬるぬると先から漏れ出た期待を広げていく。そのままぎゅっと握られると、どくどくと心臓が強く跳ねて体が折れた。 「ぃいっ! んン、は、あ、あぅ」  お湯の温かさと蒼の肌の温もりに包まれ、心が蕩けきって来た。体も焦らされて熱が溜まる。その一番熱いところは握られたままで、手はピクリとも動かない。 「また焦らすのかよ……扱いて、蒼。お願い」  後ろから覆い被さっている蒼に、すりすりと腰を押し付けた。前に触れている手は動かないのに、乳暈を触る指はずっとくるくると緩慢な刺激を続けていて、その刺激が腰の方に溜まっていてもどかしかった。二箇所同時に焦らされて堪らなくなり、顔が火照り、涙が出てきた。  中心を触っていた手が離れると、後ろでカチャカチャとベルトを外す音が聞こえた。忘れていたけれど、蒼はスーツのままだった。濡れたままの服を着て俺を愛撫していることになる。いくら浴槽の中にいるとはいえ、お湯から出ている部分は冷えていくはずだ。俺は蒼が心配になって、上体を捻って蒼を見た。 「蒼、スーツ脱い……あうっ!」  ドンっという衝撃が体を貫いた。毎日何度もする俺の体は、ほぼ準備がいらない。それは蒼も知っている。それでも、こんな風に勢いよくぶつかるように挿れられたことは、今まで一度も無かった。  一瞬だったけれども、水面に顔を出す淡水魚のようにはくはくと口を動かした。言葉は出ない。体の奥の方に、衝撃が打ち込まれて居座っていた。 「あっ! っぐ、うっ、うう!」  蒼は黙ったまま、俺の腰を強く掴むとバンバンと激しい音をさせながら抽送を繰り返した。肉のぶつかる鈍い音が、相手を潰しそうなくらいの激しさに変わっていく。感覚遮断が出来ていない俺の体には、耐え難い苦痛となって襲ってきた。 「蒼っ! 待って、だめ、飛ぶ! よくない方に飛ぶ! ……っぐあ、あ、あ」  この10年、セックスで精神的に追い込まれたことなど、一度も無かった。毎日愛され、大切にされ、幸せにしてもらっていた。俺なりに出来ることを探して来ていたはずだ。貰うことしか出来ないセンチネルでいたく無かったから、蒼にも幸せを与えたかったから、ずっと努力をしていたはずだ。 「蒼! やめてくれ……やめ……あ、が、があ、あ」  キーンと耳鳴りが聞こえた。可聴域限界の20kHz、倍の40kHz、もっと高い音、低域は20Hzを超え、18、16、14……信じられないくらいの轟音が俺を襲った。体はどんどん冷たくなっていく。目は閉じようとしても閉じられずにどんどん瞼が開いていき、浴室にも関わらず眼球が乾いてボロボロと涙がこぼれた。 「ひぎっ、ぎ、が……うあああああー!」  自分の声から叫び声が出たまでは認識していた。その声の大きさも、尋常じゃ無かった。俺は叫び暴れ回る自分を、まるで遠くの方で観客のように見ているように感じていた。全てが自分から乖離していくように感じた時、突然バツンと目の前が真っ暗になった。 ◇◇◇ 「蒼、しばらく俺がついてるから、お前も少し眠って来い。俺なら信用できるだろう?」  ベッドに横たわる翠の隣で、抜け殻のようになっている蒼に声をかけた。昼間に事務所を飛び出して行ったきり顔を合わせて無かったが、残務があったため研究所に顔を出していると、震える声で蒼が電話をかけてきた。俺がこれまで聞いたこともないほどに弱々しい声で、本当に蒼なのかどうかも怪しいと思ってしまったほどだった。  翠は、浴室でケア中にゾーンアウトしかけてしまった。最近頻発している事件のセンチネルと、似たような状況になったようだった。ただ、翠が死ななかったのは、ボンディングパートナーが高レベルのガイドだったからだ。  この男は優秀だ。常に部屋には翠を救うための準備が整えられている。そして、このレベルに上がるまでにかなりの現場をこなしているため、緊急時の状況分析が冷静かつ正確だ。  蒼はまず、朝には二人とも問題が無かったことを踏まえ、今の自分たちに問題があると考えた。それならば、朝より前の自分の体液があれば翠を救えると考えたのだった。  そして、常備している乾燥精子をフィルコに詰めて、翠の中に入れた。直腸からの吸収は速い。すぐに翠は落ち着きを取り戻した。  乾燥精子が有効だったということは、翠では無く今の自分に問題があるという問題点の切り分けにもなった。  そこで、翠の体調の変化を観察してから、研究所の晴翔さんへ連絡してきた。それをたまたま俺が受けたのだった。 「お前に何か問題があるのだとしたら、普段の数値と比較するためにも検査を受けて来い。晴翔さんを呼んだから、晴翔さんの研究室に行けよ。すみません、池野さん、この人を永心課長の部屋へ連れて行ってもらえますか? お願いします」  俺は夜勤スタッフの池野さんに、蒼を晴翔さんのところへ連れて行ってくれるようにお願いした。蒼はまるで亡霊のように立ち上がると、のそりと外へ歩いて行った。  その背中には、緊急時を脱したことで襲って来た焦りと、それが通り過ぎて入れ違いにやってくる喪失感とが、ないまぜになってのしかかっていた。  能力などない俺にさえわかるほどに傷つき、恐ろしいほどに自分を責めていた。  俺はそれを見て、少しだけイライラした。  無力感に苛まれるのは、何も出来なくなってからでもいいはずだ。少なくとも、俺は蒼や翠よりもそれを感じる機会が多い。落ち込むのは、全てがどうにもならなくなってからでも遅くないはずだ。 「蒼! 翠の目が覚めたら、お前がケアをするんだぞ。それは何があっても絶対に変わらないことだ。だから、今のうちにしっかり調べてもらってこい。そして、事件解決の糸口を掴むぞ。お前と翠にしか出来ないことだ。落ち込むのは、打つ手がなくなってからでいいだろ? しっかり寝て来いよ!」  蒼は俺の声にピクリと瞼を上げると、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。そして、ふんわりと微笑んだ。 「覚悟してたつもりだったのにな。うん、まあでも、これでわかったかもな。翠を失う恐ろしさ。絶対そうならないようにする。検査して、状況分析しようぜ。お前もちゃんと休めよ!」  そう言って手を軽く上げると、池野さんと共にエレベーターホールに向かって歩いて行った。 「回復は早いな。さすが特級レベル10」  二人の足音と話し声が聞こえなくなったのを確認して、俺は翠の顔を覗き込んだ。運ばれて来た時には青ざめていた顔色も、今はやや赤みが刺すほどに回復している。額に触れた俺の手が冷たかったのか、ピクリと反応を示した。

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