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第22話 最後の日

 蒼は怒りに震えていた。人の命を奪うほど危険な薬物をばら撒いていた理由が「ヤりたいから」だと知って、我を忘れるほどに怒っていた。  何も知らなかったとしても最低な理由だ。しかも、鈴本が亡くなっているにもかかわらず、未だにそれを続けている。鈴本は偶然亡くなったわけではない。分析の結果が、あの二人を黒だと言っている。 「ぐあっ!」  右の拳が池本の頬にめり込み、そのままバランスを崩して倒れた。後ろ手に拘束されているため、肩から地面に向かって倒れ込んだ拍子に、ゴキっと鈍い音がした。 「わあああああ!」  池本は痛みに耐えかねて、その場でゴロゴロと転がり始めた。sEを飲んでいると言うことは、やや感覚過敏になっているはずだ。ただでさえ痛む脱臼が、地獄の痛みに感じるほど増幅されているだろう。  蒼は池本のその姿を見て、冷たく笑った。そして、開き切った瞳孔で池本を見据えたまま、次の攻撃を仕掛けようとしている。  すると、河本が周囲をゆっくりと睨め付けながら呼ばわった。 「おい! 今池本を見捨てたら、内定取り消しどころじゃ済まないぞ。議員を怒らせたらどうなるかくらい、お前らの頭でもわかるだろ? 下手したら毎日こええお兄さんが挨拶にくるようになっちゃうぞー!」  そう言って、ヘラヘラと笑い始めた。  池本は痛みに呻きながら、まだ転がり続けている。蒼が池本の近くにたどり着いた時、河本は一瞬で蒼の隣へとやってきた。さっきも思ったが、この男は異様に足が速い。蒼は一瞬怯むと、一歩後ろへと下がった。  すると、河本はまた恐ろしい行動をとった。大きく足を振りかぶると、池本の腹目掛けて思いっきり蹴り込んだのだ。それはヘソの近くへとヒットして、池本は「ぐおえっ!」と言いながらエビのように丸くなった。 「お前……気が触れてるのか!? 池本は仲間なんだろ!?」  驚いた蒼が青ざめた顔で河本の方を振り返ると、その鼻先にまで拳が迫っていた。蛇のようにぬらりとした笑顔を貼り付けて、河本の攻撃が蒼を捕えそうになっている。 「くっ……!」  ギリギリでそれを交わした蒼は、そのまま側転の要領で距離をとった。そして、右の奥歯を噛み込んだ。 ——翠。河本の動き読んで俺に教えて。  ガイドは直接触れているセンチネルとはエンパスもテレパスも出来る。ただ、パートナーと距離が空いているとそれが出来ない。だから田崎は通信機を持たせた。それはわかっていたけれど、動きを読んで伝えるのか……。 ——翠。お願い。あの男、俺より速い。このまま一人じゃヤバいから。  二人が睨み合ったまま動かなくなったことで、周囲の学生たちが俺たちへ攻撃を仕掛けようとしていた。 「人生で負けたくなかったら、こいつらが死んじまうまで薬漬けにしてやれ!」  河本は蒼から目を逸らさないまま、周囲へと呼ばわり続けている。  俺たちには信じられない話だが、数人が翔平や鉄平に襲いかかって行った。  鉄平がいるから安心だとは言っていたが、翔平だって最低限の護身術は習っている。何もやっていない大学生などに負ける事はない。  それでも、困難を乗り越えて必死に生きていこうとしている翔平に、人の力を借りて生き残ろうとしている人間が束になってかかっていく様を見るのは辛かった。  翔平が負けていないからか、気が抜けたのもあって俺は呆然とそれを眺めてしまっていた。  すると、後ろに人の気配を感じた。いつもならとうに気がついているはずの気配を、相手の手が届くほど近くに来るまで、全く感じることができなかった。  戦場であろうことか腑抜けてしまっていた俺の頭に、振り返る間もなく衝撃が襲ってきた。 「……っつ! 誰だ……」  後ろから頭を殴られたようだ。今は感覚遮断をしているから、そこまでの痛みは感じないし、フィルコが俺を守ってくれている。ミュートよりも危険に強い状態を作り上げられているはずだ。  ただ、殴られた事自体に驚いて振り返ると、そこにはついさっき俺に謝ってきた女子学生たちが、一心不乱に俺に襲いかかって来る姿があった。  その顔を見て、衝撃を受けた。全員、せせら笑っている。 「これが現実か。それほどミュートは生きにくいんだな」  VDSのして来たことは、一体何だったんだろうか。  能力者も非能力者も生きやすくなるようにと、スタッフたちが心を砕いて来た日々は何だったんだろうか。そんなことを考えて、虚しさに囚われてしまった。  そこへ、池本が女子学生たちの後ろを回り込んで、俺のところへと迫って来るのが見えた。実際に見えたわけではない。透視してエネルギーの移動を感知した。 ——ヤバい、間に合わないかもしれない。  池本の方へと向き直り、迎えうつ準備をしようとした。だが驚いたことに、池本は手を拘束されたまま走っているにもかかわらず、どんどんスピードアップしていた。  目の前で、池本の足が振り上げられた。そのスニカーの先に、きらりと光るものが見えた。 「ロック、よそ見すんな!」  そこに現れたのは、田崎だった。田崎が俺の腕を引き、衝撃から守るようにして転がりながら池本から遠ざけてくれた。そして、立ち上がり態勢を立て直そうとしたが、すでに目の前に池本はいた。そして、田崎の動きでは池本には追いつけなかった。 「嘘だろ……」  池本のスニーカーの先には、針が仕込まれていた。その先端から、わずかに液体の揺れる音が聞こえた。注射器のようなものが仕込まれているようだ。 『ナオは一度しかsEを摂取した形跡がない』  それで理解した。おそらく、あの液体は高濃度のsEリキッドなのだろう。池本からはsEの匂いしかしない。河本からはイプシロンの匂いしかしない。つまり、あれを交互に刺されたら、死期が早まる……。  ナオはアウトして飛び降りて死んだ。でも、俺があれを交互に刺されたら、おそらく鈴本と同じ目に遭うのだろう。 ——蒼はどうなった?  蒼は鉄平と組んで河本を倒していた。他の生徒たちはやはり訓練を受けた者には敵わなかったようで、全員が翔平にまとめ上げられていた。その翔平自身は、軽い怪我をしていたが無事のようだった。 『蒼、河本は絶対に確保してくれ。そうしないと、俺は死ぬかもしれない』  右の奥歯を噛み締めて、蒼へと伝える。蒼は一瞬ぴくりと反応したが、そのまま河本の攻撃をかわして仰向けに倒すと、腹うちをして気絶させた。  そして、河本が全く動かなくなったのを確認すると、鉄平が河本を拘束し始めた。 「果貫さん、鍵崎さんのところに行ってください!」  言われるよりも早く、蒼は俺の方へと駆け始めた。 ——良かった。蒼は大丈夫だ。  そう思った瞬間、俺は池本の針を腹に受けてしまった。 「うっ!」  ドスっと音がした。最初は針の痛みよりも、足で蹴り上げられた鈍い痛みが俺を襲った。そして、だんだんヘソの横あたりから、じわじわと液体が広がっていくのがわかった。  最初は冷たく、そしてだんだんと熱くなり、まるで体の中から毒虫に食い破られるような痛みが、じわじわと全身を襲い始めた。 「うっ! がっ……うあっ、あ、あ」  痛みというよりは恐怖と不快感に飲まれ、俺はその場に頽れた。  蒼はまだ手の届かないところにいた。  池本はニヤリと笑いながら、倒れ込んだ俺の頬にナイフを突きつけて来た。  そのナイフの鋒には、むせかえるほどのイプシロンの匂いがした。  花の蜜のように甘いイプシロンが、高濃度すぎて目眩を誘う。ぐらりと視界が歪んだ。 ——これで終わりか。  派手に血を撒き散らして死んでいくのかと思った瞬間、そもそも俺はこの世に歓迎されていなかったのだろうなという思いが頭をよぎった。  手がかかる俺を残して死んでしまった母や、二人だけになったのにいなくなってしまった父。煙たがって育ててくれなかった親戚。  生まれながらの能力が高すぎて友人も作れず、どこに行っても抜けない疎外感と孤独感。それから逃れるために、必死にレベルアップする事だけを考えて生きてきた。 ——もう、それでもいいか。  だんだんと弱気が首をもたげてきて、そのまま意識を無くしそうになっていた。 ——ガイドはセンチネルがいなくても生きていけるからな。  そう思うと、どうしようもなく寂しくなってしまった。  蒼は俺がいなくても生きていけるのかと思うと、胸が潰れそうになった。  死の危険が迫っているにも関わらず、俺は想い人への独占欲に支配されていた。それでも、死ぬ時は別々なんだろう。 ——俺の最後の男は蒼だっていうのは守り通せそうで、良かった。  そう考えて上を向いた瞬間、俺に刃を突きつけようとしていた池本は、俺の視界からその外へとぶっ飛ばされて行った。 「和人っ!」  池本を横から飛びつくようにして俺から引き剥がしてくれたのは、和人だった。  ただ、和人はVDSに登録してからもあまりトレーニングに参加していないため、勢いだけで池本に立ち向かっている。  ガイドは距離を取られるとただの人だ。必死になって池本のナイフを奪おうとしていた。  急に横から飛び込んできた和人の顔を見ると、池本の顔色が変わった。  しかし、すぐまたヘラヘラと笑うと、和人に向かってそのにやけた顔を突きつけてきた。 「お前、永心の隠し子だろ!? お前がこいつらの味方をする理由はなんだ!? 永心のために動くのか!? お前を捨てた奴らのために動くのか!?」  池本は瞳孔の開ききった目で和人にそう言い放つと、和人の腹に前げりを入れて思い切り吹き飛ばした。 「……がっ!」  飛ばされて地面に叩きつけられた和人は、息が詰まってしまったようで立てなくなっている。池本はそのまままた俺を目指して走ってきた。  ただ、間には蒼がいる。蒼は池本に回し蹴りを放ち、少し距離を取れるくらいに飛ばした。 「このやろうっ邪魔すんな!」  再び戻ってこようとしている池本の足に、和人が絡みついている。まるで小学生の揉み合いのような状態だ。  それでも、蒼が俺のところに来るまでの時間稼ぎにはなってくれる。和人の必死さに、俺の視界はゆらゆらと揺らいだ。 「ちゃんと育ててもらってるくせに、勝手に問題児になって煙たがられてるだけのやつと一緒にしてんじゃねーよ!」 「……んだとコラァー!」  池本の咆哮のような罵声が響いた途端、「ああー!」という悲鳴が俺の耳に飛び込んできた。それは、和人の悲鳴だった。 「和人! 打たれたのか!? ガイドにあんなの打たれたらどうなるかわからない……田崎っ!」  田崎は、池本の前に走り出ると、周囲を確認した。そして、右の奥歯を噛み締めると『発砲します』とタワーへ許可を求めた。 『VDS田崎さん、事前登録済み。緊急事態のため発砲を許可します』  タワーのシステムロボットが発砲の許可を出した。その声と同時に、池本は肩を打たれてその場に倒れ込んだ。 「ぐあああー! あああああー!」  打たれた肩を抑えることが出来ない池本は、パニックを起こしているのか、その傷口を地面に叩きつけるようにしていた。  汚い声をあげながらのたうち回る池本を、田崎は革靴で踏みつけた。そして、口に菊神さんから渡されたイプシロンを放り込んだ。 「あ、が、……っ、に、す……、だ、て、め……!」  だんだんそれが効いてくると、痛みを感じなくなったのか、そのまま眠ってしまった。 「翠っ!」  蒼が俺のところへ辿り着き、イプシロンを飲ませようとした。田崎も俺の方へと走ってくるのが見えた。ガイドやミュートの鼻でもわかるくらいにsEの匂いが強いのだろう。  本来なら、そのやり方があっているはずだ。でも、今俺が注入されたsEの量を考えると、解毒するための量のイプシロンを摂取した途端に、間違いなく血管は壊れる。 「蒼、だ、め。それ、だ……め」 「翠?」  蒼は訝しげに俺を見ると、手を繋いだ。話せなくなりつつある俺の手をとり、テレパスしようとしている。 ——高濃度のsEを打たれた。イプシロンを打つと、鈴本のようになる。田崎、あの注射……。 「翠!?」  そこまでしか伝えられなかった。俺の意識は、そこで途切れた。

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