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第23話 俺が生まれた意味
◇◇◇
夏の日差しは年々厳しくなる一方で、年を重ねるごとに生きていくこと自体が大変な日々になっていた。今年の夏は想像以上に暑くて、肌が焼けるのではと思うと半袖を着るのも憚られる。このクソ暑い中スーツで仕事をする日々に、妙に感謝している自分に笑えてきた。
明日の打ち合わせは何時からだっただろうか。午後はどんなマッチングをしようか。研究所に寄ってクラヴィーアのプロジェクトをもう少し表だったものにしましょうと晴翔さんに伝えなくては……。
イプシロンについてもそうだ。それに、sEを作っている奴らを止めるために……
——ああ、そうだ。俺はその現場に行っていた。ブラックアウトしてそれからどうなった?
そう疑問に思った時だった。
すん、と鼻を鳴らした。
大好きな香りがする。
毎日ずっと嗅いでいたくなるような、体を焦がすような甘い香り。
「……?」
混濁した意識の中に、朧げに浮かんでは消える人の姿が見える。
——金髪……なんだか綿菓子みたいだ。うまそうだな……。
その髪を掴もうと思い、手を伸ばした。サラサラと揺れ動くその髪は、肌の近くが濡れていた。それに、ほんのりと熱が溜まっていた。
——あ、香りが強くなった……。
「……あっ、ン……う、」
まるでぬるま湯に使っているような、眠気を誘う緩やかな快楽が俺を包んでいる。その優しさに身を任せていると、ぎゅっとへその周りに力が入った。
「ああっ、はっ、あ」
「翠……起きて……頼むよ」
蒼が泣いてる声が聞こえた。俺は気持ちいいのに、なんで泣いてるんだ?
——嬉しい。気持ちい。大好き。……もっと。
もう一度、同じ場所にぎゅっと力が入った。そしてその後、今度は後孔周りがヒクヒクと小刻みに動く。抽送に応えるように動くそれに合わせて、俺の口から声がこぼれ落ちた。
「あああっ、蒼……もっと」
ほんの小さな声だけれど、ポロリとこぼれ落ちた。その声を聞いたのか、蒼の指と俺の指がしっかりと絡められて、シーツに縫い止められた。
「翠っ。戻ってきて。もう少しだから」
蒼の体が俺の体にぶつかる音がする。骨を包んだ筋肉が、バチンバチンと音を立ててぶつかり合っている。
切れ切れに俺の名を呼び、切なげに息を吐き出す。
——なんでそんなに辛いんだ? 俺ならここにいるのに。
「あっ……ああっ、ふっ」
後ろから俺を抱きしめ、一心不乱に腰を振る蒼の姿が目に浮かんだ。もちろん、それは俺の目に見えているわけではない。透視している時と同じ、イメージが脳裏に浮かんでいた。
——あれ? 俺、もしかして死んだ?
そんなことを思った瞬間、「生きてるよ! 死なせない! んっ……、クッ!」と言いながら、ガクンと体が跳ね上げられるのがわかった。
そして、それがまるで蘇りの合図であるかのように、温かい物がふわっと俺の体を包み込んでいった。
——蒼。
目を開き、後ろを振り返ろうとした。俺のその動きに気がついた蒼は、後孔から熱を引き抜いた。ちゅぽんっと濡れた音がして、そこからトロリと欲が溢れる。ケアの限界を越えたのだろうか、蒼はガタガタと震えていた。
その震える手で俺の肩をそっと引いた。向かい合わせになると、まじまじと俺の様子を確認している。急に目を開いてもアウトしない。普段と比べ物にならないくらい丁寧にケアされたのがわかった。
「翠!」
アウトはしないけれど、酒を飲んだ時のようにふわふわと視界が揺れていた。
その揺れに合わせて、だんだん視界がクリアになっていき、金色の綿菓子が目の前にはっきりと見え始めた。
今度は正面から俺を抱きしめたまま、息を切らして縋り付いてくる。
大きく肩で息をしているが、その呼吸音に喘鳴が混じっているのがわかった。体は燃えるように熱く、その肌は捕まえた俺の指が滑り落ちてしまいそうなほどに濡れている。
「そ……どし……た」
ゆっくりと隣の金髪を撫でながら声をかけた。ただ、長いこと眠っていたのか、言葉を発するのが難しくてうまく話せなかった。
口をぱくぱく開きながら首を捻っていると、蒼がまた指を絡ませてくれた。そして、そのままグッと握りしめてくれる。
これは俺たちの間では「テレパスしよう」の合図だ。
——声が出ないの? 俺のことわかる?
俺はその白い肌と大きな目を見つめながら、ふっと微笑んだ。笑う力は残っていた。安心させてあげたくて、力を笑筋に注ぎ込んだ。
——蒼。俺の、大好きな男 。また助けてくれたのか?
蒼は何も言わなかった。俺が見つめ返していることに安堵したようで、体を震わせながら「よかった……」と小さな声を絞り出した。
「よかった……よかった、本当に、よかっ……」
そのまま俺を捻り潰す気なのかと言うくらいに強く抱きしめた。
「俺、ガイドでよかった。一緒にいてよかった。俺じゃなきゃ助けられなかった……トップランクまで上り詰めておいて良かった!」
そう言うと、そのまま子供のように大声を上げて泣き始めた。天を仰ぎ、大きな口を開けて大声で泣いている。その姿がとても愛しくて、俺も込められるだけの力を込めて蒼を抱きしめた。
そして、気がついた。左手には点滴の針が刺さっている。その先には、高カロリー輸液のパウチがぶら下がっていた。そして、反対の手には血液製剤のマークがついたパウチが下がっている。それには「So Kanuki /Sui Kagisaki」と記名されていた。
——あれはなんだろう?
そう思って聞きたかったけれど、蒼はまだ泣いていた。俺も、目が覚めたばかりで混乱している。今はこのまま抱きしめあっておこうと思い、蒼の首にキスをした。そして、ふわふわの金髪を撫でながら、愛しい泣き虫が満足するまでくっつきあっていた。
◇◇◇
ひとしきり泣いた後、蒼は俺の顔を両手で包み込んだ。グスグスと鼻を鳴らし、うさぎのように真っ赤になった目で俺を見つめている。頬を撫でられその気持ちよさに思わず身を捩ると、また涙を浮かべてしまう。
俺を失うかもしれない恐怖と闘いながら、必死にケアをしていたのだろう。その胸の内を思うと、申し訳なくてたまらなくなった。
それと同時に、必死になって俺を取り戻そうとしてくれた事に、心から嬉しくもなった。
「ありがとうな。何度も俺のこと助けれくれて」
意識が戻ってから、数時間は立っているだろう。陽が昇り、暮れていった。
さっきまた蒼が大声で泣いたから、何かがあったと思った田崎と永心が転がるように部屋に入ってきた。いつものようにいきなり扉を開けるから、今回はまともに裸で抱き合う俺たちの姿を見られてしまった。
その時の野本はと言うと、流石のあいつも今回は逃げも照れもせず、痛みを堪えるような顔をしていた。
「鍵崎さん……良かったです。あなたはまだ死んじゃいけない人です。戻って来れて良かった」
そう言って、ボロボロと涙をこぼしていた。普段の野本からは想像もつかない姿だったため、俺は心底驚いた。そして、深く感謝した。
——ありがとう。こんな格好でごめんなって伝えて。
俺がそう頼むと、蒼は野本へ微笑んで「ありがとうってさ」と伝える。野本はその笑顔を見て、真っ赤になって照れていた。
「ちょっと翠に服を着せるから出ててもらえる?」
蒼は自分以外が見るのが嫌なのか、何も着ていない俺をシーツでぐるぐる巻きにした。そのくせ、自分は全裸で俺の荷物を探そうと立ち上がる。それを田崎がやんわりと止めた。
「いや、とりあえず今日はこのまま解散しよう。翠、無事で何よりだ。本当に良かった。蒼、お前もゆっくり休め。三日間ほぼ抱きっぱなしだっただろう? 絶対眠れよ。ヤんのは明日以降にしろ。いいな?」
田崎は蒼を指差しながら釘を刺した。
確かに今の蒼は、ケア目的ではなく恋人同志のセックスをしたそうな顔をしている。それを見抜かれ、注意されてキマリが悪そうにしている。
俺はそれがおかしくて吹き出してしまった。
その時、へその横に強烈な痛みを感じた。キリのようなもので刺されたような痛みと、蹴り上げられた鈍い痛みが一緒になって襲ってきた。
「うっ! ってえ。……そういや刺されたんだった」
へその右横には、丸い青あざと血の滲んだ傷跡があった。そこに刺さった針が動いたことで、出血量が多くなってしまったと言う。俺はそのショックとゾーンアウトで数日眠っていたらしい。
あの時盲点だったのは、俺には蒼というパートナーがいるのだから、sEの過剰摂取が起きていたとしてもケアをして貰えば済むということだった。
集合の時に必ずイプシロンを回されると踏んでいたから、俺たちだけは現地集合にしてもらったのだということさえもすっかり忘れていた。
つまり、いつもと同じケアが出来る状態だった。sE解毒のためにイプシロンに頼る必要などなかったのだから、もう少し落ち着いていたらアウトしなかったかもしれない。
ただし、イプシロンのリキッドを注入されていたら、間違いなく俺は死んでいただろう。そう考えると、和人には感謝してもし足りない。
そこまで考えて、はたと気がつく。和人はどうしたのだろうか。
「なあ、和人はどうなったんだ? あいつ、イプシロンのリキッド打たれたんだろう? それもナイフに仕込んであったやつだったよな。 無事か?」
四人がピクリと反応したのがわかった。纏う空気の色が変わる。それだけで、良くない内容の話になるということがわかってしまう。
この先をそのまま聞くべきなのかと田崎の方をチラリと見ると、観念したように息を吐き出しながら答えてくれた。
「イプシロンのリキッドは想像以上の濃度だったようで、和人も丸二日眠っていた。そして、目が覚めて何か違和感はないかと聞いてみたら、何も答えなくてな。ずっと黙ってたんだ。ただ……」
その先は、永心が引き取ってくれた。黙っていてもセンチネルにはわかることがある。そして、その口から告げられたことは、この半年の間に聞いた、嬉しくない報告の二度目となった。
「俺の目で見ると、明らかに体の中にいくつかエネルギーの欠損箇所があるように見えた。それも、該当箇所は真っ黒だ。つまり……」
「和人はストレンジャーになってしまったんだな……」
俺はそう呟くのが精一杯で、後は俯くしかなかった。和人は俺を助けてくれた。あの時、和人が横から助けに入らなければ、俺は死んでいた。それは間違いない。俺の命の恩人になったわけだ。
ただ、その代償にガイドの能力を失ってしまった。生まれつきのミュートとは訳が違う。これまで出来ていたことが全く出来なくなる。それを俺のように責任ある立場の人間がさせてしまったということが、重くのしかかってきた。
「俺を助けたせいで……和人の未来が変わってしまったのか……」
何よりも、ミュートの学生たちのあの狂い方を見てしまった後だ。能力がなくても幸せになれるなどと、軽々しく言えるはずもなかった。これからVDSでケア要員として働くこともできない。
ストレンジャーとしてミュートのみんなと一緒にスタッフの仕事は出来る。それを和人が納得出来るかどうかにかかっている。
「梧桐に……話しかけていただろう? 俺が逝くまで待っててくださいって。あいつ、ほっとくと死にそうだったんだ。ガイドでもそうだったんだ。ストレンジャーになってからどうするか……田崎、またしばらく和人についてやっててくれないか?」
俺は自分の罪悪感から逃げるために田崎に責任をなすりつけようとしている。本当はそんな自分が許せない。ここにいる四人は、俺のその気持ちをおそらくわかってくれているだろう。だから、甘えているというところもあった。
だが、田崎は「それは出来ない」と言う。「どうして……お前だって和人が心配だろう?」と訊くと、何やら逡巡していた。
そして、腹を決めたのか両手を腰に当ててツンとした偉そうな顔をして仁王立ちすると、驚くべき答えを俺に堂々と言い放った。
「お前のために和人のそばにいることは出来ない。俺は、俺自身のために和人のそばにいる」
俺は田崎に向かって、わかるようなわからないような、意識が戻ったばかりの人間に周りくどい話をして欲しく無いものだ、という顔をした。すると、今度は仕事の時のように畏まって立ち、コホンと咳払いをして、また同じようなことを言う。
「俺自身のために和人のそばにいる事に決めたんだ。俺は和人を守りたい。ずっと迷っていたが、池本を撃った時に決心した。和人にはもう伝えてある」
「へーそうか。そうなんだー……」という反応が永心の口から漏れた。その一拍遅れで「へっ!?」と野本が大声を上げる。
それを聞いて蒼が吹き出してしまった。俺はそれを見て、田崎の言っている意味をようやく理解した。
「お、お前が和人のことが好きなのは気がついてた。でも、それを和人に言ったのか? 鈴本が死んだばかりなのに?」
驚く俺を尻目に、「おう。悪いか?」とややキレ気味に返してきた。田崎にしては砕けた返しだった。気持ちが完全にプライベートに切り替わっているらしい。俺もそれを聞いて、学生の頃に戻ったような気分で話すようになった。
「いや、悪くはねえしむしろ二人のためには良かったんじゃねえかなとは思うけど……お前、怖かっただろう? 断られる可能性の方が高い状態での告白じゃねーか。すげえな」
田崎は一瞬ふっと笑ったのだが、そのすぐ後に顔を両手で覆い俯いた。体の中に大きな痛みが芽生えたようで、自分を守るような体勢になった。
「俺もそれまでは迷ってたよ。ミチには何故かバレてて、ずっと背中を押されてたけど、それでも言えなかった。でも、池本を撃った時、和人を失うかもしれないと思って……それからはもう、なりふり構ってられなくなったんだよ」
田崎はそう言って、手元にビニール袋を取り出してきた。そこには、たくさんの空になったアルミシートとsEの文字があった。それを取り出して、苦々しげに「これは和人が飲んだものだ。イプシロンを解毒した後に、ストレンジャーになったことを悔いて……これを飲んだ後にまたイプシロンを探して彷徨いてた。そこを捕まえて、またしばらく眠らせてたよ」
「そんな……それは、死のうとしてたって言うことか?」
「おそらくな」
俺は言葉が無かった。自分のせいでそんな事になっていたなんて……呑気に眠っている場合では無かったじゃ無いかと、腹立たしくなっていった。俺のその気持ちが伝わったのだろう。蒼が俺をぎゅっとハグしてくれた。俺はその腕にしがみついた。
「あ、でもこの話には続きがある。さっき言ったように、俺は和人に告白した。そしたら和人は『俺みたいな何も無い人が生きていく意味はなんですか?』って聞いてきたんだよ。だから、ちゃんと答えておいたぞ。俺たち三人の約束」
蒼と田崎が俺の方を見て小さく頷いた。それは、ミチにかけた言葉と同じ。それを和人に言ったのか……。
「能力者も非能力者も行きやすい世の中を作る……そのために生きて、働く。和人はそれで納得したのか?」
田崎はフルフルと被りを振った。「どう言う事だよ」と訝しむ俺に、ふっと微笑みながら顔を赤た。
「俺がお前の人生の悲しみに寄り添ってやるから、俺とともに生きてくれって言ったんだ。つまり……」
「『それが、俺の母親が俺に託した名前だから』って言ったのか? お前、それプロポーズだろ!」
三十歳目前の男が十九歳の少年に向かって……年齢的には結婚は可能だ。でも、ミュートとストレンジャーは入籍出来ない。たぶらかしていると受け取られたら、田崎は捕まるかもしれないような危うい問題だ。
「で、和人はなんて?」
すると、後ろのスライドドアがガーっと音を立てて開いた。そこには、真っ赤な顔をして小さな青紫の竜胆の花束を持った和人が立っていた。
「よろしくお願いしますって言って、一緒に生きていく事にしました。環さんはずっと他の人が好きだったし、僕も結構前に諦めていたんです……それに、田崎さんの気持ちが嬉しかったから……」
青白い顔をしている和人の隣に田崎が立ち、その肩を抱きしめると和人の頬にほんのりと赤みが刺した。俺はそれを見ているとなんだかたまらない気持ちになってしまっていた。
「竜胆の花言葉の通りに生きてくださいね、だったっけ?」
気が触れた田崎の母親が、包丁を振り回して息子の顔に消えない傷を作った後、窓から飛び降りる寸前に田崎に遺した言葉だ。
「ずっとその言葉に縛られて生きていた」
田崎は和人の手の花束を受け取ると、その花をじっと見つめた。
「呪いなんかじゃなくて、心配されていたんだって、やっとわかったよ」
その小さな花の香りを嗅ぎながら、鶯色の瞳から美しい涙を流して「これでやっと親離れだ」と呟いた。
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