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第二章① 厄介な男
橘薫の初恋は、ある初雪の晩だった。
その日は、薫の曾祖父、名門橘本家前当主の通夜であった。親類縁者一同が一堂に会し、夜が更けるまで酒を酌み交わし、故人を忍ぶ。家の女達も、駆り出された親戚の女達も、もてなしのために大わらわだ。
子供にとって、それはあまり面白いものではない。普段住んでいる家が、まるで知らない場所のように思えた。知らない大人が大量に出入りして、知らない大人が大声で騒ぐ。自分の家にいるはずなのに、肩身の狭いがした。
薫は、こっそりと庭へ抜け出した。普段は夜中に外へ出るなと言い付けられているが、今夜はお目付け役のばあやも厨房と広間を行き来したり客人にお酌をしたりと大忙しで、誰も薫を諫める者はいない。
薫は束の間の自由を得た。そもそも、普段から過保護が過ぎるのだ。薫だってもう子供じゃない。と思っているのは本人だけであり、実際はまだまだ幼い子供である。
そんな時だ。まだ小さな少年だった薫は、一人の青年と運命的な出会いを果たした。
雪のちらつく中、夜の闇に溶け込むように、彼は一人で佇んでいた。
「こんなとこで何してるの」
薫が言うと、青年は視線だけをこちらへ寄越した。
「待ってんのさ」
「何を?」
「ガキには関係のねぇ話だ」
「お母さん? お母さん待ってるの?」
「……」
吐いた息が、白い綿埃のように舞い上がって、黒い夜空へ消えていく。
「お前、本家の跡取りだろ。薫坊ちゃん」
「お兄さん、僕のこと知ってるんだ」
「誰だって知ってる。さっきだって、一番前の席でお行儀よくしてたじゃねぇか」
「お兄さんは? 名前、何ていうの?」
薫は差していた傘を高く掲げたが、青年は傘に入ろうとはしなかった。
「俺の名前なんか知ってどうすんだ。意味ねぇよ」
「え~、なんでよ。今日ここにいるってことは、一応親戚ってことだよね? でも僕、お兄さんには初めて会うかも。うちに来るのは初めて?」
「……ま、曾おじい様が死んだとなりゃ、出席させねぇわけにもいかなかったんだろ」
青年はぶっきらぼうに答えた。全てを諦めたような、感情の抜け落ちた昏い瞳が印象的だったが、青年が一体何を思っていたのか、その辺りの機微が幼い薫には分からなかった。
「ずっとここにいるの? 寒くない?」
「そりゃお前こそだろ。こんなとこで油売ってねぇで、あったかいお部屋に戻れよ」
「僕はいいんだよ。中にいてもつまんないもん」
「それは完全に同意だな」
雪はしんしんと降っていた。そばにそびえる松の木が、うっすらと白く染まっていた。
「薫坊ちゃん!」
母屋の方から声がした。薫は咄嗟に振り向く。血相を変えて、ばあやが駆け寄ってきた。
「お部屋にいないと思ったら、こんなところで何をなさってるんですか。まぁまぁこんなに冷えて! 風邪を引いたらお辛いのは坊ちゃんなんですからね」
一瞬目を離した隙に、あの青年は姿を消していた。足跡は残っているのに、幽霊のように忽然と消えてしまった。薫はばあやに尋ねた。
「さっきの人は?」
「誰です?」
「ここにいた男の人だよ。誰か知ってる?」
「さぁ、ばあやには何も見えませんでしたよ」
「うそぉ! ずっと一緒にいたんだよ。今日来てる親戚の中の誰かでしょ? 探してよ」
「きっとまたすぐに会えますよ。さ、ばあやと一緒に戻りましょう」
結局青年の名前は聞けず仕舞いだったし、二度と会うことはなかったが、薫の目には彼の姿が焼き付いていた。雪の降り積もる松の木のそば、喪服の袖に手を突っ込んで暖を取る彼の姿が、いつまでも頭を離れない。
*
探偵を使って全国を探し回り、ようやく再会を果たした時には、薫は大きな少年に成長していた。そして、探していた彼は子持ちのやもめになっていた。
「あんたが……青柳肇さん?」
「……」
よちよち歩きの子供を砂場で遊ばせながら、肇は冷たい目で薫を見た。
「誰だてめぇ」
「僕だよ、僕! 橘の跡取りの、薫坊ちゃんだよ!」
「はぁ……?」
肇はうんざりした様子で溜め息を吐いた。
「ボンボンが何の用だよ。俺ァもう橘とは関係ねぇんだ。今更連れ戻そうなんて」
「思ってないよ! 僕はただ、あんたにもう一回会いたくて」
「おい真純ィ、お砂場セット舐めんじゃねぇよ」
子供が、小さいおもちゃのスコップをしゃぶっていた。肇は、服の袖で涎を拭いて子供に手渡す。
「あんたの子?」
「調べは付いてんだろ?」
「やな言い方するなぁ。あんたが家出しなければ、もっと早くに見つけられたのに」
曾祖父の一連の法要が終わった後、薫はすぐに肇を探した。家の者に頼めば、どこの誰かということはすぐに分かった。しかし、肇は既に出奔した後だった。
「卒業までの辛抱だったんだよ。俺のこと調べたんなら、分かってんだろ?」
「うん、まぁ。少しはね」
肇は橘の分家出身で、薫とは親戚に当たるが、不義の子として生まれた上、母親が肇を残して蒸発したため、実家では長らく冷遇されていた。高校卒業と同時に上京し、結婚して名字を変え、子供まで生まれたが、妻を早くに亡くし、今は男手一つで幼い息子を育てている。
「……色々分かった上で言うんだけど。僕と付き合ってくれませんか」
真純のつむじに注がれていた肇の視線が上がる。初めて、薫と肇の視線が絡み合った。
「……イカレてんのか?」
「真面目に言ってるよ」
「イカレてるな」
「真面目に聞いてってば。一目惚れだったんだ。僕がどうしてずっとあんたのこと探してたと思う?」
「酔狂だな」
「もう一回会いたかったからだよ。会って話したかった。ちゃんと好きって言いたかったんだ」
「ボンボンは脳まで溶けんのか? この国の行く末が心配だぜ」
帰るぞ、と真純に声をかけて、肇は砂遊びセットを片付ける。カラフルな色付けがされたおもちゃのスコップや熊手を、おもちゃのバケツに放り込む。
「ねぇ、肇さん」
「気安く呼ぶな。気持ちわりぃ」
「僕、本気だからね」
「だったら何だよ」
「逃げられると思わないで。絶対にあんたを手に入れるから」
「はっ、ご苦労なこったな」
まるでまともに取り合わず、肇は嘲るように鼻で笑った。
*
薫は両親をうまいこと騙くらかして、進学と同時に上京と一人暮らしの許可を得た。一人暮らしといっても、父親の所有するマンションに引っ越すだけである。
肇の住むアパートも既に調査済みである。満開の桜が咲き誇る中、薫は真新しい制服に身を包み、錆と風穴だらけのおんぼろアパートを訪れた。
インターホンを鳴らしても返事はない。試しにドアノブを握ってみると、簡単に回った。
「あっ……♡」
男に媚びるような、上擦った声が微かに聞こえた。続いて、微かな衣擦れの音。水に濡れたような音。
奥の部屋で一体何が起きているのか。薫は恐る恐る扉を開いた。
それは、この世のものとは思えないほどおぞましい光景。惚れた男が、見知らぬ男に股を開いていた。
「あっ、あぁいい、そこ……♡ もっと突けよ、っ」
肇は男にしがみつき、甘い声を漏らす。薫は呆然と立ち竦んだ。耳鳴りがして、視界が白くぼやけていく。
「何してんだよっ!?」
気付けば大声で怒鳴っていた。肇はようやくその視界に薫の姿を収める。
「何って、見りゃ分かんだろ。セックス」
「セッ……!?」
「箱入り坊ちゃんには刺激が強すぎたか? どうせ童貞なんだろ」
「ちがっ、僕はっ――!」
再び大声を上げた。途端、子供の甲高い泣き声がサイレンのように響き渡った。
その場にいた三人の男の意識は、一斉に隣の部屋へと向かう。肇は、覆い被さる男を押しのけて、のそりと起き上がった。
「わりぃな。今日はもう閉店だ」
「そりゃないぜ、肇ちゃん。オレまだ出してねぇのに」
「るせぇな。ガキに邪魔されんのは承知の上だろ。今日は別の邪魔も入っちまったしな。半額でいいから、遊んだ分は置いてけよ」
「次はいつ空いてる?」
「あー、また連絡すっから」
とっとと行けとばかりに、肇はひらひらと手を振った。男は卓袱台に金を置き、薫を訝しげに一瞥して去った。
「てめぇもとっとと帰れ、坊ちゃん」
「えっ、な……今のって……?」
「話聞いてなかったのか? 俺ァ体売って食い扶持稼いでんだよ」
「はっ……?」
薫は瞠目した。
探偵からの報告書に、そんなことは一文字も書かれていなかった。そういう世界があるという話は噂程度には聞いたことがあったが、まさか現実に存在していたなんて。肇が苦界に身をやつしていたなんて、薫は考えもしなかった。
「お綺麗な世界で大事に大事に育てられた坊ちゃんにゃあ、想像もつかなかったか?」
肇は下着だけを履いて、火のついたように泣き叫ぶ真純をあやした。そっと抱き上げて、軽くゆすって、背中をとんとん優しく叩く。
「俺は手っ取り早く金がほしい。あいつらは俺の体で気持ちよくなりてぇ。ウィンウィンなんだよ。分かるか?」
「……じゃあ、恋人とかじゃないんだ」
「当たり前だろ。割り切りってやつだ。愛だの恋だの、胡散臭くて反吐が出るぜ」
「……」
「これで分かっただろ。俺がどういう人間か。中古で手垢まみれの汚ったねぇケツなんか、追っかけ回したってしょうがねぇだろ。寝惚けたこと言ってねぇで、大人しくお屋敷に帰りな。坊ちゃん」
真純を抱く肇の背中は小さく見えた。実際は薫なんかの比じゃないくらい大きな背中をしているのに。
「僕の名前は坊ちゃんじゃない」
「ボンボンの方がお好みか?」
「違う。僕の名前は、薫だよ」
薫はカバンに手を突っ込んだ。本革の財布を引っ張り出す。
「これからは僕がお前を買う。ずっとだ。言ってる意味分かる?」
「はぁ……?」
「僕がお前の食い扶持になるから、他の奴には売らないで」
「……」
肇はじっと薫の手元を見た。頭の中では熱心に算盤を弾いていることだろう。
「いいぜ。その話、乗った」
「……!」
「ま、すんのは次回に持ち越しだな。せいぜい楽しみにしとけ」
真純は落ち着いた様子でにこにこしていたが、眠気はすっかり吹き飛んでしまったらしい。
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