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第八章① 子持ち若夫婦の苦悩 ♡
一日の講義が終わり、疲れた体を引きずって帰宅する。都内一等地にある高層マンションの高層階に、薫は今住んでいる。
鍵を開け、ドアノブを回す。開放的なガラス窓から夕日が差し込んで眩しいが、部屋の中はしんと静まり返っている。
塵一つ落ちていない、隅々まで整理整頓された清潔な部屋。冷蔵庫を覗けば、タッパーに詰められた手料理の数々。通いで雇っている家政婦が、家事は全て完璧にこなしてくれている。
夕食を温めようと、薫は電子レンジの扉を開いた。
「ただいまー!」
ガチャ、と玄関のドアが開いて、元気な声が響いた。それに続くように、気怠げな低音も聞こえてくる。
薫は廊下に顔を覗かせた。「おかえり」と言えば、「ただいま!」と真純が勢いよく飛び付いてくる。三人は今、同じ家に住んでいる。
「遅かったね」
「こいつが公園行きたいとか言い出してよ」
「もっとあそびたかった」
「飽きるほどブランコ乗ったろ。先に手ェ洗ってこい」
真純は黄色の通園カバンを下ろし、麦わらの帽子を脱いだ。セーラーカラーの白いブラウスを着て、紺のハーフパンツを履いた真純は、今や保育園の年長さんだ。
片や、緩いTシャツにスウェットパンツというラフな恰好をした肇だが、実は正社員として立派に働いている。仕事帰りに肇が真純を迎えに行くのが日課になっている。
薫はといえば、大学に通いながら実家の事業の手伝いをして、趣味程度に株式投資なんかして小遣いを稼いでみたりして、充実した日々を送っている。それもこれも、父親との交渉がうまくいったおかげだ。薫は勘当されずに済み、肇との関係も黙認してもらっている。
「今日ねー、みんなでおにごっこしたんだけどね、ゆうちゃんがころんで泣いちゃったの。みんなでよしよしってしてあげてぇ、ますみはてつぼうからおちたんだけど、泣かなかったよ」
三人で食卓を囲む。一番おしゃべりなのは真純で、保育園での出来事を事細かに教えてくれる。誰と何をして遊んだとか、先生が何を言っていたとか、描いた絵を見せてくれたり、覚えたての歌を舌足らずな調子で一生懸命歌って聞かせてくれたりする。
肇は、基本的には食事に集中しているが、真純の話にはしっかりと耳を傾けている。その都度相槌を打ち、話を振られればちゃんと答える。真純がグリンピースを皿の端によけて残しているのを見て、「一個は食えよ」と促したりする。
「いっこでいーの?」
「残りは薫が食ってくれるからな」
「なんで僕!? 肇が食べてあげなよ」
「そこまで好きじゃねぇ」
「僕だってそんなに好きじゃないよ。真純、グリンピースくらい食べられるようになんないと、将来大きくなれないよ?」
「別にグリンピースくらい食えなくてもどうってことねぇだろ」
「ますみこれすきじゃない。いっこだけたべる」
「おう。一口食えりゃ十分だ」
「ま~たそうやって甘やかして」
「あとはパパとかおるにあげるね」
そんなこんなでのんびりとした食事を終える。洗い物は薫の仕事だ。肇は真純を風呂に入れて、少しテレビを見、いい時間になったら寝かし付ける。その間に薫は入浴を済ませて、レポート課題をまとめたり、明日の準備に勤しんだりする。
真純が寝静まる頃には、既に夜は更けている。真純を寝かし付けながら肇も一緒に寝てしまい、そのまま朝を迎えることもしばしばだ。
「いつまで勉強してんだよ」
寝室の扉が静かに開いた。真純はぐっすり眠っている。肇は足音を忍ばせて歩み寄り、薫の隣に腰を下ろした。
「ん~、もうちょい待って」
切りのいいところまで仕上げたくて、薫はキーボードを叩く。肇はむっとしたように、薫の足を軽く蹴った。
「おい」
「ちょ、暴力反対」
「かーおーる」
「わか、分かったって。もう終わらせるから」
肇の手が、薫の股間にそっと伸びる。パジャマの上から優しく撫でられると、そこは容易く頭をもたげる。肇は、悪戯をするような手付きで焦らしながら、躰を密着させて薫の耳を甘噛みする。
「薫……♡」
「……っ」
耳を舐られ、熱い吐息を吹き込まれ、そこまでされたらもうレポートを書くどころではない。薫は熱に浮かされながらも、とりあえずデータだけは保存してパソコンを閉じた。
「っ、は……ぁ、んん……」
寝室の隣の部屋――薫の書斎という名目にしてあるが、実際は夜の営みの場としてしか使っていない――に移動し、縺れ合うようにして布団へなだれ込んで、情熱的なキスを交わす。何度も何度も唇を重ね、汗ばんだ肌を触れ合って、心は確実に燃え上がっていく。
「っ、も……いい?」
「来いよ。すぐ挿入る」
前戯もそこそこに、薫は肇の中へと沈み込んだ。
「っ、やばっ……」
0.02㎜の薄皮越しであってもはっきりと感じる鮮烈な刺激に、薫は息を呑む。がむしゃらに腰を振りたくりたいのをぐっと堪えて、ゆっくりゆっくり奥を捏ねるように腰を動かす。
本当は、もっと激しくしたい。後先考えずめちゃくちゃに抱き潰したい。足腰立たなくなるまで突きまくりたい。肇の好きなところを責め立てて、喉が嗄れるまで善がらせたい。
しかし、壁一枚隔てた向こう側で真純が眠っていることを思うと――前のボロアパートよりは格段にマシだが――そんな身勝手な振る舞いはとてもできない。真純の安眠を妨害することはもちろんできないし、父親のそういった現場を見せるなんてことも、当然あってはならない。
薫と肇が肉体関係にあるということを、真純に知られるわけにはいかない。何が何でも秘匿し続けなければならないのだ。まさかこの歳で子持ち夫婦の気持ちを理解することになろうとは、薫も思っていなかったが。
「気持ちい……好き」
薫が囁くと、肇は息を弾ませながらこくこくと頷く。唇を噛みしめて、声を漏らさないように頑張っている。こういう健気なところもかわいいと思うけれど、感じ入った声が聞けないのを惜しいとも思ってしまう。
「も、いい? 出そう……」
「ん、っ……いいぜ……」
肇がうっとりと囁く。甘い唇が重なって、舌が甘く痺れる。迎え腰に誘われて、薫は夢中で追い込みにかかった。
「んぁ、ン……っ、んん゛っ……♡」
肇は自身の性器を握り、律動に合わせて乱暴に擦り上げた。とりあえず出すものを出せばすっきりするのだから、男の体というのは単純である。
「も、まじで……やば……」
「おれも……っん、く、……っ」
肇が快楽を得れば、それだけナカもきつく締まる。薫は歯を食い縛った。もう出そう。だけどまだ、もうちょっとだけ、この快楽を味わっていたくて。
不意に、肇がはっと息を潜めた。ドアの向こうに意識を向ける。つられて薫も振り向こうとするが、その前に思い切り突き飛ばされた。
「ぱぱぁ~。どこ~?」
ドアのすぐ向こうに真純がいる。状況を呑み込めずぼさっとしたままの薫を尻目に、肇は素早く下着を身に着け、ドアを開けた。
「何してんだよ、こんな時間に」
「パパ!」
真純は喜んで肇に抱きついた。
「なんでズボンはいてないの?」
「暑いからな」
「ますみ、トイレにおきたんだよ。えらい?」
「ああ。もう行ったのか」
「ううん。パパ、ついてきてもいいよ」
「お化けが怖いだけだろ」
「ちがうもん!」
真純は肇に纏わり付いて離れず、トイレへと引っ張っていく。肇は、あーだこーだ言いながらも優しく付き添う。廊下に楽しげな声が響き、やがて水を流す音がした。
「かおるは~?」
「勉強してて寝ちまったから、あっちの部屋に運んどいた」
「パパ~、ますみもはこんで~」
「甘ったれんなよ」
そう言いながら、肇は真純を抱き上げる。真純を抱っこして、薫のいる部屋の前を通り過ぎ、寝室に戻っていった。
「ね~、ずっとここにいてね? いなくなんないでね」
「ちゃんと見てっから、早く寝ろ。明日も保育園だろ」
「ん~。ぱぱもいっしょにいけたらいいのにね」
やがて、喋り声が聞こえなくなった。息を潜めて聞き耳を立てていた薫は、どっと安堵の息を漏らした。
そっと寝室を覗くと、肇がこちらを向いて頷く。それを合図と受け取った薫は、こそこそと布団に潜り込んだ。
「寝た?」
「まぁな」
真純は肇と手を繋ぎ、すやすやと幸せそうに眠っていた。
「わりぃな。いいとこで中断しちまった」
「うん……」
正直、フラストレーションが溜まっていないと言えば嘘になる。ここしばらく、最後までできた試しがない。ただでさえ毎晩できるわけではないのに、その貴重な一回が不完全燃焼に終わってしまうと、いくら出すものを出してすっきりしても、心は満足してくれない。
「口でしてやっから」
「……ここで?」
真純の手は小さいけれど、肇の指をしっかりと握りしめており、ちょっとやそっとじゃ放しそうにない。
「……無理か」
「……だから、僕がするね」
「はぁ?」
薫は肇の下着をずり下ろした。そっと指を這わせれば、まだ十分濡れている。くちゅ、と微かに音がした。
「っ……おい、」
「挿れないから……すぐ終わらせるし……」
双丘をむんずと掴んで割り開いて、薫は自身を沈み込ませた。閉じられた太腿の間に挟まれる。程よい圧迫感に、薫は喉を鳴らした。
「てめ、こんなのどこで……っ」
「僕だって男だよ。こんなのとっくに知ってるよ」
着けたままになっていたスキンがローションを纏っており、ちょうどいい潤滑剤になる。程よい圧迫感に程よい滑り。素股なんて初めてしたが、案外気持ちのいいものだ。自然と腰が速くなる。
「っ、おい……もっと静かにできねぇのか」
「だって、気持ちくて……もっと締めてよ」
「ちっ……注文が多いなァ」
鬱陶しそうに文句を垂れる肇だが、僅かながら腰が動いているし、息も上がっている。それを見逃す薫ではない。そっと前に手を伸ばした。
「っ! おい、そこは……っ」
肇のそこを強めに握った。薫の手の中でむくむくと大きくなる。太く逞しい男の象徴だ。
「ぁ、くっ……やめ……っ」
「いーじゃん。僕だけよくなっても悪いし」
「ふざけ、……んっ、ぁふ……っ」
強めに扱きながら、ペニスの先端で会陰を突く。ぐりぐりと突いて、引いて、また突き上げて。くちゅ、くちゅり、と水音が立つ。呼吸すら憚られる深い夜の帳の中では、その控えめな音にさえ性感を煽られる。
「も、ぁ……いく、いくって……っ」
「うん、一緒にイこ」
「ぅ、っく……ん゛ん……――っっ」
肇はビクビクと痙攣し、指を噛んで嬌声を押し殺した。二人揃って、薄い皮膜の中に精を放った。
「ぁ……はっ……♡」
あえかな吐息を漏らして小刻みに震える肇を、薫はそっと抱きしめた。
「よかったでしょ?」
「くそが……二度目はねぇぞ」
「え~、こわーい」
「うぜぇ……」
薫に後始末を任せて――言われなくても薫はそのつもりでいたが――肇は疲れた瞼をゆっくりと閉じた。やがて穏やかな寝息を立て始め、後に残るのは時計の針の音だけだ。
「でもやっぱりどろどろのエッチがしたいよぉ~」
「朝っぱらから何言ってんだお前」
子供みたいに駄々を捏ねる薫を、肇は冷ややかな目で見て鼻で笑った。
「だってそうじゃん。僕だって、まだピチピチのギャルなんだよ。そろそろ我慢も限界だよぉ~」
「ギャルではねぇだろ」
「肇をアンアン啼かせてズコバコ突いて中出しして種付けしたいよぉ~」
「変なこと言うんじゃねぇ。真純に聞こえたらどうすんだ」
肇は軽く窘めながらも、若くして性欲に制限をかけてばかりの薫を不憫にも思ったらしく、ある一枚の紙をテーブルに置いた。
「ほらよ。そんなお前に朗報だ」
「なに……?」
お泊り保育のお知らせと題された、保育園から保護者宛てのお便りだった。
「今度園に一泊すんだよ」
「へぇ? 楽しそうだね?」
「話の通じねぇやつだな。真純が一晩帰ってこねぇんだよ」
「ふぅん……?」
「おい、なんでピンと来てねぇんだよ。俺がここまで言ってやってんのに」
薫はお便りに目を通した。金曜の昼から土曜の朝までの日程で、お泊り保育が実施されるらしい。保護者がすることは、事前の荷作りと送り迎えだけ。当日、園児は親元を離れて、先生や友達と楽しく過ごすようだ。
「これって……」
「ようやく理解したか。ボケたかと思ったぜ」
「これって、つまりそういうこと?」
「ああ。そういうことだ」
「えっ……え……マジで!?」
全てを理解した薫は、思わず声を張り上げた。
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