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第九章③
「おきろーっ!」
どすん、と腹に重たい一発が入る。肇は目を剥いて飛び起きた。
「お゛っ……まえ……」
「父ちゃん! 朝風呂の約束! 忘れたの!」
肇は朦朧とした頭で思考を巡らす。昨晩寝る前に、真純とそんな約束をしたのだった。
「先入ってろ。すぐ行く……」
「絶対ね! かおるはもう起きて入ってるから!」
「ああ、あいつ……」
昨晩どうやって床に就いたのか、記憶が定かでない。薫がせっせと布団まで運び、浴衣もきちんと着付けたのだが、そのことを肇が覚えているわけもない。
早朝の山の空気は澄んでいる。清浄な朝日を浴びて、一面に降り積もった雪がダイヤモンドを散りばめたように煌めいている。
「さっっっむ!」
肇は身震いし、急いで湯船に飛び込んだ。
「あっつ!」
「ね~。きもちーね」
真純はほかほかと湯気を立たせながら、楽しそうにすいすい泳ぐ。真純を見守りながら、一応大人らしく静かに温まっていた薫は、肇にウインクを飛ばした。
「おはよ、寝坊助」
「誰のせい……」
「え~? 遠慮しないでいいって言ったじゃん」
薫が小声で茶化すと、肇は苛立ったように舌打ちをした。
「あんなにしろとは言ってねぇだろ、クソ」
「なぁに? 真純に無理やり起こされて、ご機嫌斜めなの?」
「だって父ちゃん、全然起きないんだもん! ますみと約束してたのに!」
「だからっていきなり飛び込んでくんのはマジでやめろ。体重いくつだと思ってんだ。内臓潰れたかと思ったわ」
「ますみ、重かった?」
「重いに決まってんだろ。次はもっと優しく起こせよ」
「せっかく真純が起こしてくれたのにねぇ」
「ね~。最初は優しくしたんだよぉ? なのに父ちゃん、全然起きないから」
「あ~、寝坊したのは悪かったって。今ちゃんと入ってんだから、そんでいいだろ」
肇がぶっきらぼうに言うと、真純は遊ぶのをやめて肇の隣に座り、ゆったりと肩まで沈んだ。
「うん! 温泉、たのしーもんね。父ちゃんとかおると一緒に来られて、ほんとうれしい!」
「よかったな」
「父ちゃんは? 楽しかった?」
「……そうだな。俺も……」
肇は真純の頭を掻き撫でる。確かな血縁を感じさせる、濡羽色の髪。
「楽しかったよ」
「よかったぁ!」
真純は嬉しそうににこにこ笑った。
朝食も部屋でゆっくり食べた。出汁巻き玉子や焼き魚、数種類の小鉢がついた、定番の和朝食である。夕食と同様、真純には専用のお子様セットが配膳される。オムレツやハム、ウインナーなど、子供の好きそうな料理がワンプレートに並んでいた。
「ますみだけプリンついてる! いいでしょ、ね!」
「ああ、好きなやつな」
「ね~、かおるも見て! ますみのプリン!」
「ヨーグルトと交換する?」
「しないよぉ。プリンはますみの大好物だから!」
子供にはプリン、大人にはヨーグルトがデザートとしてついてくる。正直なところ薫もプリンの方が好きだが、無理に交換してもらうほどお子様ではない。
「そうだ。これ、今分けちまうか」
肇はおもむろに立ち上がると、カバンから小さな白い紙袋を取り出した。昨日訪れた神社の名が刻まれている。
「父ちゃんもお守り買ったの?」
「薫がくれた。誕生日プレゼントだと」
「わ~、ますみの真似した」
「ま、真似じゃないよ! たまたま被っただけ」
袋を開ければ、色違いのお守りが三つ出てくる。真純はきょとんと目を丸くした。
「よくばり?」
「ちげぇよ。三人で分けるらしい」
「みんなでお揃いで持ちたいな~って思って買ったんだ」
「お前、好きなの選べよ」
梅の花が刺繍された錦の小袋が並ぶ。真純はそれをじっと見つめて、くすくす笑った。
「ますみが青いのえらぶって、父ちゃんもかおるも分かってたでしょ」
「別に、どれでもいいんだぜ」
「ううん。ますみ、やっぱり青がいい。好きだから。でね~、たぶんだけど、白はかおるで、黒いのは父ちゃんでしょ」
真純は得意満面の笑みを浮かべた。薫と肇はちらりと顔を見合わせて、それぞれのお守りを手に取った。
「真純、大正解。こうなるつもりで色選んだんだ。分かっちゃった?」
「うん! だって、いっつもこんな感じだもんね。父ちゃんは黒っぽい方が好きだし、かおるは明るい色好きだもん」
真純はにこにこと花が綻ぶように笑う。案外、子供には全てお見通しなのかもしれない。お揃いのお守りは、各々カバンにぶら下げた。
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