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29話・愛したがり、尽くしたがり

 伊咲センパイの寝言で『ナオヒサさん』の名前を聞いた後。そして道端で偶然『田賀先輩』に遭遇した後。俺は千代田を通じて卒業生の情報を調べた。すると、予想通り『田賀(たが) 尚久(なおひさ)』なる人物がいたことが判明した。  伊咲センパイの二つ年上で現在二十三才。大学を卒業した後は親が経営する会社に就職している。次期社長は兄、田賀は兄の補佐をするために入社したのだろう。  以前遭遇した際、同行の先輩社員らしき人が仕事中に知人と話し込む田賀に注意しなかったことが引っ掛かっていた。入社して半年足らずの新入社員に対して甘過ぎやしないか、と。理由は簡単、社長の息子に説教なんてできるはずがないのだ。  百瀬(ももせ) 眞耶(まや)との婚約も親同士が知り合いだからまとまった話なのだろう。見合いをした時期は恐らく大学卒業前、伊咲センパイと別れた後のはずだ。  あの時、笑顔で伊咲センパイに声を掛けてきたのは、田賀にとって伊咲センパイとの交際は既に過去の話になっていたからなのか。  なんか無性に腹が立ってきた。  伊咲センパイはまだ心に傷を負っているのに。 『──尚久(なおひさ)さん』  眠りながら幸せそうに田賀の名を呼ぶ彼の顔を思い出し、唇を噛む。  伊咲センパイはまだ田賀が好きなのか。  今でも夢に見るほど恋焦がれているのか。  いや、違う。  偶然会った時の彼の様子を考えれば、田賀に対して恐れを抱いているとわかる。だからこそ、俺がなんとかしなくては。 「ただいま戻りました~!」  引っ越し作業は数時間で終了した。一旦事務所に戻って着替え、日が暮れる前に伊咲センパイのアパートへ直行する。 「おかえり獅堂くん、お疲れ様」  玄関で出迎えてくれた伊咲センパイが俺の上着の袖をくいと引く。つられて少し身を屈めると、頬に柔らかなものが触れた。伊咲センパイがほっぺにキスしてくれたのだ。 「お、おかえりの、ちゅー……」  すぐに体を離し、顔を真っ赤にして呟く伊咲センパイ。俺が出がけに『いってらっしゃいのちゅー』をおねだりしたから、自分から『おかえりのちゅー』をしてくれたのだ。  なにこれ新婚?  俺たち既に結婚してた? 「今ので疲れがぜんぶ吹っ飛びました! さ、晩メシ作ろっと!!」 「君は帰ったばかりだろ。少しは休憩しなよ」  リュックを下ろしてすぐキッチンに向かおうとする俺を伊咲センパイが引き止める。気遣いは嬉しいが、居ても立っても居られない。 「でも、伊咲センパイに喜んでもらいたい」  元々俺は何もしない男だった。気が向いた時に凝った料理を作るくらいで、それ以外は適当に済ませてばかり。こんな風に誰かになにかしてあげたいと思った相手は伊咲センパイが初めてだ。  半年間押しまくって情に訴えて、ようやく付き合ってもらえたのだ。役に立たなければ捨てられてしまう、と強迫観念みたいなものを感じているのかもしれない。田賀のこともある。尽くしまくって好感度を上げたいというのも大きな理由ではあるが。  そんな俺の心情を見透かしたのか、伊咲センパイは頬をふくらませた。 「もう。せっかく帰ってきたのに、僕を放っておくつもりなの?」 「ン゙ン゙ッ゙!!」  萌え過ぎて変な声出た。尊過ぎて天を仰ぐ俺の袖を引きながら、伊咲センパイは言葉を続ける。 「君はいつも色々してくれるけど、あんまり頑張らなくていいから」 「エッ」  それ、どういう意味?  ウザいからやめろってこと?  発言の真意がわからず涙目になる俺を見て、彼はあきれたように肩をすくめた。 「……あのね、僕だって君になにかしてあげたいって思ってるんだよ」  そのままリビングのソファまで連れて行かれ、座るように促される。どっかりと深く腰を下ろすと、伊咲センパイは背後に回った。両手が俺の肩に置かれ、グッと力がこめられる。肩を揉んでくれているのだとわかり、こわばっていた体の力を抜く。 「ホントはごはん作って待っていようかと思ったんだけど、君が買ってきた材料を勝手に使っちゃまずいかなと思って。それに、君が作ったほうが美味しいからさ。こんなことくらいしかできないけど」  昨夜抱き潰されたせいでまだ体に力が入らないだろうに、バイトで疲れた俺を癒そうとしてくれている。嬉しい。嬉し過ぎて泣きそう。ああ、触られている部分が溶けそう。肩凝りとか筋肉痛とか全部どっかいった。 「だから、僕といる時くらいは楽にしてて。一緒にいてくれるだけでいいから」 「……っ、ハイ」  後ろから耳元で囁かれ、びくんと体が跳ねた。伊咲センパイの言葉のひとつひとつが俺の心に沁み込んでくる。なにもしなくてもそばにいて良いのだと言われ、また目頭が熱くなった。  やっぱり、どうしようもなく好きだ。  伊咲センパイのためならなんでもしてあげたい。

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