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30話・盗撮犯
俺と伊咲センパイは学年と学部が違う。講義の場所も時間もバラバラ。故に、帰宅時間も異なる。
「僕もう今日の講義終わったし、先に帰るね」
「わかりました、気をつけて」
無理に引き留めはしなかった。
なぜなら、伊咲センパイは大学内に流れる不名誉な噂のせいで好奇の視線に晒されており、学部棟や研究棟に安住の地がないからだ。それと、十一月に入ってから気温がぐっと下がり、中庭で時間を潰すことが難しくなってきた。伊咲センパイを寒空の下で何時間も待たせるわけにはいかない。
「他に予定がないのなら、あの店で待ってるけど」
伊咲センパイの言う『あの店』とは駅近くにある隠れ家的な喫茶店である。教えてもらって以来、時々待ち合わせに利用しているのだ。
「講義が終わったらダッシュで向かいます」
「いいよ急がなくて。じゃ、また後で」
「ハイッ!」
中庭から出ていく伊咲センパイに手を振って見送っているだけで勝手に頬がゆるむ。
こうして日々の些細な待ち合わせをするだけでも幸せな気持ちになる。恋ってなんて素晴らしいんだろう。ぶっちゃけ恋愛ソングとか全然心に響かなかったけど、今なら理解できる気がした。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。メールの送信元は千代田だ。
「よし」
メールに書かれていた内容はだいたい俺の予想通りだった。中庭を出て、近くの建物に入る。そのまま階段を駆け上り、二階の廊下に出た。
「捕まえといたぜ獅堂」
「サンキュ、千代田」
中庭に面した廊下のど真ん中には、千代田に首根っこを掴まれた小柄で気弱そうな男が項垂れていた。すぐそばの床には男のスマホが落ちている。画面には先ほど撮影したと思われる伊咲センパイと俺の写真が表示されていた。
最初に異変に気付いたのは千代田だ。
伊咲センパイとの初顔合わせの時、千代田は『シャッター音がする』と言った。最初は気のせいだと思っていたが、注意深く耳を澄ませていると、どこからかシャッター音がすると気付いた。しかも、伊咲センパイと中庭で会っている時だけ。
今日は事前に千代田に怪しい場所を張ってもらい、写真を撮っている人物を確保するよう頼んでいたのだ。
「盗撮してやがったのはおまえか変態野郎」
胸ぐらを掴んで問いただすと、気弱そうな男は怯えたように体を震わせて首を横に振った。
「ち、違う。おれは頼まれただけで」
「頼まれた? 誰に」
予想はついているが、敢えて問う。
男が口を固く閉じて拒んだので、更に体を持ち上げる。床から足が離れたあたりで男が慌ててもがき始めた。
「素直に吐いたほうがいいですよ先輩。獅堂 を怒らせたらシャレにならないんで」
ぼそりと囁く千代田の声に身の危険を感じたか、男はようやく重い口を開いた。
「……た、田賀 さんに」
やはりそうか。
パッと手を離すと、男は床の上に転がった。先ほどまでの締め上げが苦しかったのか、何度も咳き込んでいる。
「理由を教えてもらおうか」
俺と千代田が凄むと、男は観念したように事情を話し始めた。
男は田賀が所属していたサークルの後輩で、奴が卒業した後も度々頼まれごとをされているという。父親が田賀の会社で働いているから逆らえないらしい。
頼まれごととは、伊咲センパイの写真を定期的に送ること。講義のスケジュールや居場所を教えること。
俺と千代田は顔を見合わせた。
「オレに例の噂を教えた先輩もこの人と同じかもしれん。たぶん、その田賀って卒業生に頼まれてたんだろうな」
火のないところに煙は立たないが、こっそり火をつけて回る奴がいれば話は別だ。
伊咲センパイに近付く者、興味を持った者に悪い噂を教える奴が存在している。つまり、田賀の息がかかった奴がまだ大学内にいて、伊咲センパイの不名誉な噂を広めたり、行動を監視していたということ。
「お、おれは田賀さんから頼まれて仕方なくやっていただけだ!」
情けない弁明を聞きながら、俺は口の端を歪めて笑う。おそらく物凄い悪人ヅラに見えていることだろう。
「アンタが盗撮してるって何日か前には気付いてたんだよ。でも、今日まで捕まえなかった。理由がわかるか?」
俺の言葉に、男は首を横に振る。
「アンタのことを調べてたんだよ。文学部の四年で、大手の出版社に内定貰ってるってな」
内定の話が出た途端、男は顔色を失った。
「盗撮してた事実が明るみに出たら、せっかくの内定が取り消されちまうかもしれねーなぁ?」
警察沙汰にするまでもなく、コイツの内定を取り消すくらいはできる。伊咲センパイに害をなす存在がいると知れば、従兄弟の詩音さんが黙ってはいないからだ。複数のペンネームを持ち、複数の出版社で書いている人気作家・詩音さんの影響力は大きい。
まあ、実際には頼まないけど。
今の言葉はただの脅しだ。
盗撮犯の男は俺たちに全面降伏した。
待ち合わせ場所である喫茶店に行くと、いつもの奥のテーブル席で伊咲センパイが本を読んでいた。
カランカランと鳴るドアベルの音に顔を上げた彼が、俺たちの姿を見つけて笑顔になる。
「伊咲センパイ、お待たせしました!」
「あれっ、千代田くんも一緒なんだね」
「今日はたまたま帰りが同じで。オレもお邪魔していいですか?」
「もちろん。千代田くんともお喋りしたいし」
なにも知らない伊咲センパイの笑顔を眺めながら、俺たちはマスター特製スイーツを注文した。
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