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34話・気持ちの整理
「さあ、おでこ出してください」
「いいよ、痛くないんだから」
「ダメです。ちゃんと冷やさねぇと」
殴られたわけではないが、ぶつけたことには代わりない。まだ赤みが残る伊咲センパイの額に冷却ジェルシートを貼り付けて応急処置をした。
荒れた部屋を片付けている間、伊咲センパイは俺のそばから離れようとはしなかった。
自力で倒したとはいえ、いきなり見知らぬ男に部屋の中まで押し入られて襲われかけたのだ。更に、トラウマの元凶である田賀との対面。どれだけ怖い思いをしたか、俺には想像もつかない。
「後は俺がやっとくんで休んでてください」
「僕の部屋だもん。僕がやらないと」
そうは言っても、彼の手はまだ震えている。割れた食器を触らせるわけにはいかないので、危ないものを俺が先に片付けてから掃除機での仕上げをお願いした。
「獅堂くん」
「はい?」
あらかた片付けを終えてから、キッチンで晩メシの支度に取り掛かる。まだ俺のそばから離れたがらない伊咲センパイにキャベツの葉を剥がす役目を任せ、その隣でひき肉を捏ねる。
「田賀先輩のこと、どうして知ってたの?」
先ほど田賀の凶行を止めるために色々暴露した件だろう。俺と田賀に接点はない。伊咲センパイからしてみれば、どうして奴の事情に詳しいのかと疑問に思って当然だ。
「以前泊まった時に伊咲センパイが寝言で田賀の名前を言ってたのを聞いちゃって。それで気になって調べたんすよ」
「ね、寝言?」
「はい。田賀の夢でも見てたんすか」
率直に問うと、伊咲センパイはバツが悪そうに唇を尖らせた。
「……僕が恋人とやりたかったこと、獅堂くんが幾つも叶えてくれたでしょ。もし田賀先輩と付き合ってる時にこんな風に過ごせていたらって考えちゃって。多分そのせいかも」
実際、田賀と交際している時にはデートやセックスといった恋人らしいことはできなかったのだ。夢の中でくらい過去の願望を叶えたかったのだろう。まあ、普通に妬 けるが。
「田賀が元カレだって確信したのは街中で出会 した時っすけどね。伊咲センパイ、明らかに様子がおかしかったんで」
「やっぱりバレてたんだ」
あの時、直接問いただすような真似はしなかった。伊咲センパイを傷付けたくなかったからだ。
「実はバイトで行った先がたまたま田賀の婚約者の家だったんすよ。おかげで奴の弱みを握れました」
「婚約者……」
ぽつりと呟く声を聞きながら、続きを話す。
「あと、大学にいる田賀の使いっ走りから色々教えてもらいました」
「どうやって?」
「そりゃあ、もちろん穏便に」
盗撮と情報の横流しをしていた男は大手出版社の内定取り消しを恐れて快く協力を申し出てくれた。田賀の会社の資金繰りがヤバいという話はコイツが親から聞き出した確かな情報だ。資金援助のための政略結婚は社員の間で噂になっているらしい。
「また君に助けてもらっちゃったね」
「当たり前のことをしただけっすよ」
芯が厚い部分を包丁で削いでから下茹でする。浮いてくるキャベツの葉を菜箸で押さえながら、伊咲センパイが俯いた。
「獅堂くんには迷惑ばかり掛けてるよね。本当に、ごめん」
ぐらぐら沸く鍋にぽたりと滴が落ちる。
「あの頃は本気で好きだったんだ。デートすらしてくれなかったし酷い仕打ちをされたけど、でも、僕は尚久 さ……田賀先輩のことが、」
過去の田賀への想いを語る言葉を遮るように肩を抱き、こちらを向かせる。伊咲センパイは泣きそうな顔を隠すように視線をそらしていた。綺麗だけど、俺はこんな表情は好きじゃない。
「伊咲センパイ」
「……ッ」
名前を呼ぶと、彼はビクッと体をこわばらせた。昔の男に対する想いを口にしたことを怒られると思ったのだろうか。だとすれば、俺の愛情がまだまだ伝わっていないということだ。
「味付けはなにがいいっすか」
「は?」
なんの話だ、と言わんばかりに伊咲センパイが首を傾げる。
「ロールキャベツ。定番はコンソメだけど、和風出汁 とかクリーム煮もできますよ」
事前に好みを聞き忘れたので、ひと通りの材料を揃えている。俺の問いに対し、たっぷり数十秒ほど悩んだ後、伊咲センパイは「コンソメで」と答えた。
「獅堂くん、優し過ぎない?」
「ダメっすか」
「……ううん、ダメじゃないよ」
ロールキャベツを煮込む鍋をならんで眺めていると、伊咲センパイが俺の胸にぐりぐりと頭を押し付けて甘えてきた。
キッチンに満ちる美味しそうな匂い。俺に寄り添う可愛い恋人。なんだこの幸せを絵に描いたような光景は。ここが俺の理想郷か。
完成した俺特製ロールキャベツは過去最高の出来栄えで、伊咲センパイはたくさんお代わりをしてくれた。
美味いもんいっぱい食べて、嫌な過去なんか田賀の存在ごと綺麗さっぱり忘れてしまえばいい。そして、楽しい思い出を増やして上書きしてほしい。
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