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今朝の運動
「こんなにファックばかりしていたら身体に良くないな」
全てが済んだ後、ハリーはモーのデスクへ腰掛け、スノーボールを齧りながらそう呟く。来客用カウチをアルコールスプレーとタオルで拭いていたモーは、振り返りざま目を剥いた。
曖昧に笑いながら「別に君が下手くそだからとか、そう言う訳じゃない」と続けられたところで、勘繰りは深まるばかりだ。
その晩は眠るまでを悶々と思い煩い、翌朝には腹を括った。何事も率直、即決、速攻が己の美徳だと、他ならぬ市長がよく褒めてくれる。
「聞いていませんか。ここのところ……ハリーは何か、身体器質にトラブルを抱えているのかも知れない」
ワードで清書した稟議書をダブルチェックしてくれているエリオットに、奥歯へ物が挟まったような口調で尋ねたのは、ミスが4つも見つかってからの事だった。パソコンのモニターから顔を上げ、エリオットは眉根を寄せる。
「器質? 体調不良かい。血尿でも出した?」
「いえ、そうでは……」
結局、しばらくもたついた後、モーは前日の一部始終を洗いざらい白状する羽目になった。こちらが話すことへ気が進まなかったのと同様、あちらだってこんな話、聞きたくなかったに違いない。「ああ……」と暫くの沈黙の後、エリオットはちらと背後の執務室へ視線を走らせた。
「多分、本当に額面通り受け取っておけば良いと思うよ。ファックのし過ぎ。私の把握している限り、ハリーは先週の火曜日から、一日も欠かす事なく、誰かを執務室に引っ張り込んでる」
「8日連続」
「そう」
気まずい静寂に耐えきれず、モーが「ストレスでしょうか」と呟けば、「だろうね」と頷かれる。
「何か他の発散方法があれば良いんだが。例えば食事とか」
「彼は最近、過食気味です」
「良くないな」
もう暫く考えた後、エリオットは手をぽんと打った。
「全部解消出来る方法がある。しかもこれは、君にしか出来ない任務だ」
何故秘書が決死の覚悟で「今晩予定がありますか」と伺っても平然と流すのに、「明日の朝5時に迎えへ行くので、運動が出来る格好で待っていてください」と言えば、あからさまに動揺するのだろう。
「一体何を企んでる」
「ハリー、あなたはここの所、明らかに運動不足です。身体を動かすことは、身体と精神、両方の健康の増進法として、非常に有効的なんですよ」
「確かに、ジムもさぼりがちだなあ」
明らかに腰を悪くする事務椅子を軋ませ、ハリーは天井を見上げた。
「陸上でやらないと駄目かい。僕はどちらかと言えば、泳ぐ方が好きなんだけど」
「そうですね、負荷を減らすという意味でも」
そこまで口にしてぱっと脳裏へ閃いたのは、昨日の真昼間、隣の応接室で目に焼き付けた光景だった。ソファへ横たわった自らに跨り、悶え弾む肉体──挑発的に腰を振りたてながら、まるでこちらへ見せつけるように、ハリーは鬱血や歯型の刻まれた上半身を突き出してきて、モーへ触れるよう命じ──
「いけません、論外です」
強い口調で却下するモーに、今度こそハリーは飛び上がりそうな勢いだった。
「つまり……あなたはまだ若いし、基礎体力があるので」
「そうか……」
幸いハリーは、「僕ってまだ若いのか」と明後日の方向へ気を取られる。
トレーニングのメニューにスイミングを取り入れるのも悪くない。けれど一体、いつになる事やら……あんなイーリング市に在住する男という男へ可愛がられたような体を、ジムなり公共なりのプールで野放しにすることは、絶対に許されない。
「本当に鈍ってるんだ。いきなりハードな運動をして大丈夫かな」
「ストレッチも教えます。そこらのインストラクターユーチューバーよりも、よっぽど効果があるものを」
「そんな良い事を知ってるなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに。僕の身体が柔らかくなったら、君だって便利だろう」
「真面目にして下さい、俺は本気であなたを心配してるんですよ」
珍しく真剣に怒ったに関わらず、ハリーは「怖い鬼軍曹だ」とまともに取り合ってくれなかった。
「調べたのですが、この公園の外周は大体5キロ弱、ほぼ3マイルですね。初心者に丁度いいと思います」
湾曲したキュウリのピクルスじみた池を、ぐるりと周回する形で巡る遊歩道は、既にちらほらと先客の姿が目に付く。晩秋の夜明けは遅いから、藍色の空の下で湿地はいまだじゅくじゅくとした粘り気を帯び、草という草、葉と言う葉が露に濡れている。今から走って体温を上げれば、冷え冷えとした空気はさぞ爽快なものになるだろう。
「まずは30分を切るところから目指しましょう」
「案外優しいな」
プーマのジャージとスニーカーでぴょんぴょん跳ねるハリーに「ならもう一周増やしますよ」と怖い顔をして見せれば、また笑われた。
「一応僕だって、学生時代は凄かったんだぞ」
「俺の覚えている限り、もう2ヶ月近くジムへ顔を出していないように思えますが」
「外れ。昨日スケジュール帳を確認したら、79日だった」
なんて嘯きながら、ハリーは追いかけてご覧と言わんばかりに、不意を突いて走り始めた。先が思いやられる。頭を振り、モーも後に続いた。
最初こそふざけたものの、ハリーの走り方は、これまで恒常的に運動を行っていた人間のそれに他ならなかった、さすが高校フットボールの元州代表。呼吸は落ち着き、自分の力量を見失わず、すぐにペースを掴む。幾らもしないうちに、数歩後ろを走るモーへ話しかける余裕すら持つほどだった。
「君は毎日走ってるのか」
「時間があればですから、週に数日です。一度に7マイル位ですね」
「道理で体力が有り余ってる訳だ」
あはは、と切れるような息が、口元で白いもやとなる。
「しかし考えたなあ。君と走れば護衛代わりになるし、元海兵だからトレーナーとしても完璧だ。でもペースを合わせて貰うのは悪いな、物足りないだろう」
「俺は幾らでも付き合いますが、ジムがお好きなら、また時間を見つけて通われたらいいと思いますよ。せっかくの会費が勿体ない」
「いっそ退会しようかな」
ちらと送られた流し目に、ほんの束の間、モーは息を詰めた。エメラルドの瞳に上り始めた朝日が飛び込み、温かく、濡れたような輝きを与える。微かに汗ばみ、火照った頬で相手が何を想像したか、ハリーはお見通しだろう。
「最新のトレーニングマシンに拘りはない。もう男を物色する必要もなくなったし」
ジャージの上着を脱ぐことで現れる、大きな汗染みの浮いた白いTシャツ。癖毛が張り付く太いうなじ──あんなところに噛み痕を付けたのは一体誰だろう。己でないと断言できないのが恐ろしかった。
「トレーニングマシンは良いですよ。効率的に鍛えることができる」
口の中で言葉が縺れたのは、脱水症状のせいだろう。携えたボトルからストローで含むミネラルウォーターは一口だけと決めていた。なのに思った以上が流れ込んで、それでもまだ、喉は干上がったままだった。
初日とは思えない順調さ。目標タイムを大幅に切って、ハリーはコースを走り切る。
「次は2周走ってもいいかも知れませんね」
そう言いながら、愛車のフォードの運転席ドアを閉めるや否や、助手席に座っていたハリーが膝へ乗り上げてきたのだ。度肝を抜かれても許されるだろう。
「ハリー!」
「代謝が上がったせいかな」
ぐいとTシャツの裾で喉元を拭うものだから、まだくっきりとした隆起のある腹筋が露わになる。
「凄くムラついてきた」
そのまま抱き着かれ、鼻腔一杯を彼の汗の匂いが満たす。しっとり湿った肌は率直に言って、股間を直撃する露骨な誘惑でしかない。
「いけませんよ」
頭から真っ逆さまの勢いで誘惑に引きずり込まれながらも、モーはがっしりとした相手の腰を掴み、最後の抵抗を試みた。
「性欲を鎮める為に運動したんですから」
ぴたりと、肩口へ擦り寄る頭の動きが止まる。
「僕が太ったから、運動をやらせようとしてたんじゃないのか?」
「違います」
今度こそ、モーは盛大に声を裏返らせた。
「まさか、太ってなんか。あなたは素晴らしくいい体をしています」
「そそられる?」
「そそられます。何なら、もう少し肉がついても全然」
「ならいいけど」
そこまで言質を取られてしまえば、モーになす術などない。にんまりと目を三日月型に細め、ハリーは汗ばんだ髪を振り立ててから、モーの耳朶に唇を付けた。
「早起きしたから、時間は十分ある。ここでもう一周分運動して、僕の部屋でシャワーを浴びるんだ。それから柔軟運動を手伝ってくれ」
ジャージのズボンへ熱い手が突っ込まれ、勃起したものを掴まれるのを感じながら、モーは「そのメニューは、シャワーを浴びてからにしませんか」と悲鳴交じりで訴えた。
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