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バチェラーはナイフがお好き

 帰り際に渡されたプチギフトを、早速開封した奴がいたらしい。タクシーに乗り込みざま、ハリーはスマートフォンのテキストメールに目を落とした。「バターナイフだそうだ。クチポールか、まあ定番の品だな」  ローファーム時代の同僚が結婚した。相手は隣の市で個人病院を構える整形外科医だとか。とても穏やかそうな、いっそ気の弱さすら感じる男性だ。溌剌とした性格の花嫁と、鍵と鍵穴のようにぴったりと噛み合う事だろう。 「とうとう彼女も結婚したか……私の稼いだ金と勤勉さにぶら下がられる位なら一生独身でいる! って息巻いてたのに。新郎の診療所のリノベーション代まで折半してやったらしいぞ」 「それだけ惚れ込む程、素晴らしい男性なんでしょうね」  唇の先で言ってのけ、ヴェラスコは後ろへ流れていく車窓の景色へ目をやった。深い木立の向こうで夕焼けへと向かっていた空は、もう紫色へ変わりつつある。今から市庁舎へ行けば仕事を一つ、二つ片付けることが……そんな忙しない考えは止めておこう。今日はめでたい日だ。彼女が幸せになって本当に良かった。掛け値なしに素晴らしい子だったから。  何せ己に対して「あんた最低ね」とベッドの中で罵ってくるような女性だ。審美眼が確かだったことは間違いない。  とは言え、数回持った彼女との情事は概ね上手く行っていた。基本的に職場の人間と寝ないタイプの数少ない例外として選ばれた男として、自負しても許されるのではないか。  彼女との関係をハリーは知っていたっけ。ちらと視線を投げかければ、この街の市長としてスピーチを──勿論、事前にヴェラスコが誤字脱字のチェックを入れたものだ──読み上げる大役を果たした男は、まだ浮かれ気分。自分は断固として結婚する気などない癖に、人の祝い事は好きなのだ。 「彼女、綺麗だった。本当に綺麗だったよ。誰かを好きになるって事は、あんなにも人を美しくするものなんだなあ」 「あなたらしくない発言ですね」 「僕だって愛くらい知ってるさ」 「別に責めてる訳じゃありませんよ」  今では笑い話にして良いと思われている結婚式の日、秘書に手を引かれて逃げ出した彼の後ろ姿なら、今でも鮮明に思い出す事が出来る。  中世の政略結婚ではないのだ。そりゃあ、嫌がる相手の薬指へ無理矢理指輪を嵌める事は宜しくなかった。それでもヴェラスコは、今冷静になって一連の出来事を咀嚼すると、強く感じる。己は彼に拒絶され、確かに傷付いたのだと。  政略結婚はお互い様。人生は妥協の連続だ。特に2人とも弁護士として、落とし所についてならば熟知していた。決断する前に考えるのは、この譲歩が耐えられるかどうかという事。  つまり、ハリーにとって己は耐えうる男ではなかった。これがもしゴードンだったら、エリオットだったら、それともモーだったら。彼は渋々、あの茶番に応じただろうか。 「心配しなくても、あなたが何人の男と寝ていようと、それが愛を知らない事にはなりません」 「どうかな。少なくとも君は、僕を責め立てるみたいな顔をしてる」 「随分な自惚れですね」  ふふっと漏れた笑いに唇を尖らせ、ヴェラスコはまたそっぽを向いた。 「でも、あなたには永遠に理解出来ない事があるのも確かだ」 「へえ、そりゃ何だい」 「人から愛されるていると知ること」  沈黙は短くて、所詮ハリーがそこまで深く物事を考えていないと知らしめる。 「知ってるよ。君は僕を愛してくれてる」  その癖、声音は酷いシリアスさを帯びて、ワインと車用芳香剤の混ざった後部座席へ響く。渋茶色をしたガラス板仕切り越しに、運転手が思わず視線を一瞬走らせるほどの。殊更素知らぬふりを貫き、ヴェラスコは窓ガラスを吐息で曇らせた。 「ええ。エルもゴーディもモーも、あなたを愛してる。でも、あなたは底の抜けた袋だ。どれだけ与えられても、もっともっとと貪欲に求める」  次のだんまりは長く、ちらと横目で窺ったハリーは、表情をも真面目な形に変えていた。  底が抜けたは言い過ぎた。袋が大き過ぎる、位が妥当だったかも知れない。そう反省する己は、何と寛容なのだろう。この数年、己の人生は彼を中心に回っている。お陰で滅茶苦茶だ、と言っても良いかもしれない。  イーリング市一の社会活動家、ヴィラロボス家の息子がこんな考えを頭へ過らせたと知られれば、きっと世間は顔を歪めるだろう。自らがそこまでの悪へ踏み込む気もさらさら無い。けれどヴェラスコはここのところ、汚職に手を染める政治家の気持ちが痛い程分かるようになっていた。こんなにも真剣に、己の持てる全てを捧げて担ぎ上げている人物が負けるなんて、とても耐えられない。彼を栄光の座へ着かせる為ならば、少々のルール違反だって犯す気になるはずだ。  そして、これも一つの愛の形だと言ったところで、許されはしないだろうか。ほんの数回寝た今日の花嫁へ、まだどこか郷愁じみた想いを抱いているのと同じで。  いや、ハリー・ハーロウに向ける愛は、もっと深く、大きい。 「あなたを心の底から敬愛していますよ、ハリー」 「うん」 「僕はあなたが道を駆け上がっていく為なら、大抵のことは出来る気がするんです」 「知ってる」  まるで吐き捨てるように、ハリーは答えた。 「君が甘ったるく忠誠を誓って、無邪気な野心をひけらかす度に、僕は顔へ思いきりストレートパンチを食らうような気分になるよ」 「諦めて下さい。好意なんて所詮エゴイスティックなものですから」 「僕はてっきり、彼女は君と結婚するものだと思ってた」  ハリーのこんな態度を単に拗ねているだけだと見做せたのは、2年程前までの話。そして己がナイーブに動揺して見せたのも。 「ケイラとは、気軽な関係だったんですよ。もう彼女は身を固めました。『ではお幸せに』で終わりです」  これ以上市長が、例えば「僕に遠慮せず他の女の子と寝てきたら」などと残念な事を言い出す前に、ヴェラスコはつらつらと言葉を紡いだ。 「心配して頂かなくても、自分の下半身事情は自分で管理してますから……少々忙しくてもね」 「お相手はミズ・フィストと彼女の5人の娘って訳か」 「そんな暇ありませんよ、あなたが一番よくご存知でしょう」  視線だけで運転席を示せば、ハリーは渋々口を噤む。 「もう時効ですから、秘密を教えてあげます。ケイラはね、アナルでやるのが嫌いじゃなかった。一回試させて貰ったことがあるんです」  まるで己の娘が処女を失った時の話を聞いているかのようなハリーの表情で、いっそ急き立てられる。 「彼女は気持ち良さそうにしてましたがね。僕は正直、ピンと来なかったな」  どう言う手順を踏んで尻の中に逸物が入るに至ったかとか、ケイラが猫のように腰を突き出しピンク色のシーツをくしゃくしゃになるほど握りしめていたとか、そう言うことは覚えている。なのに、酷く実感が薄い。あの時覚えた快楽を思い出そうとしたが、何故かヴェラスコは、新品の曇り一つない銀色のバターナイフが、程良く柔らかくなった黄色いバターへ沈み込む光景を脳裏に浮かべた。 「君が経験豊富な事はよく存じてるよ。ビートン&オリアンの悪名高きプレイボーイ。君の苗字を見てロークラークに採用したオリアンは、てっきりペリー・メイスンが来ると思ったのに、いざ働き始めたらソウル・グッドマンだったものだから、度肝を抜かれていたよ」 「ねえハリー、もしかして僕達は今、喧嘩してるんですか?」 「君が思うなら、そうなんだろうな」  不貞腐れた態度はもはや取り繕う真似すらされない。手土産の入った紙袋の持ち手をほぐすよう、擦り合わされ続ける親指と人差し指へ視線を落とし、ヴェラスコは口角を吊り上げた。 「いいえ、あなたが勝手に怒ってるんです」 「よくもまあ、そんなこと……」 「この前、ティファニーは質屋に売りました」  隣で一瞬飲まれた息がせめてもの慰め、いや、これ以上何を望む事があるだろう。嬉しいと思った事をヴェラスコは恥じようとしたが、嘆かわしい事に笑みは益々深まってしまう。 「僕はもう怒ってません。ただ、傷付いたことを、僕自身が覚えていたいだけです」  出来れば、あなたも覚えていて下さいね。そう口にするのは流石に我儘が過ぎるだろう。 「嫌なことなんて、忘れた方が良いんだよ」  ぽつりと呟いたハリーは、そうしようと努力しているし、きっとすぐに達成するだろう。だからですよ、と言う代わりに、ヴェラスコはバターナイフと思しき包みを、膝の上へ据え直した。彼女との思い出は、良くも悪くもない、どうでもいいのだと、今更気付いたところで既に遅いし、ましてや隣の男へ言い聞かせたところで何になるだろう。 「僕は執念深いんです」

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