11 / 25
※子供部屋・ウィズ・モー その1
「本当にすまない、やはりホテルに……」
「気にしないで下さい、困った時はお互い様でしょう」
それに、こんなことを言っては不謹慎かもしれないが、緊急事態の際にまず彼が己を頼ってくれたことが、心底誇らしい。すっかり項垂れるハリーに降りるよう促し、モーはフォードのトランクからキャリーケースを下ろした。びしょ濡れになっていない衣服はここにある分だけだが、とりあえず数日は業務に支障を来さないだろう。幸い、配管工は朝一番に来てくれるという。こういう時こそ、市長の特権をめい一杯行使するべきだ。
夜中の23時に、電話口で半泣きになりながら「大変なことになった」と訴えられれば、何か重大な危機がその身に迫っているのではないかと心配する。幸いと言うべきか、慌てる余りパジャマ代わりのジャージ姿で駆けつけたモーの目の前に広がっていた光景は、確かに悲惨だったものの、ハリーの命を脅かすような類の事態ではなかった。
でも、泣きたくだってなるだろう。1週間ぶりに日付を跨がず帰宅したと思ったら、自宅で水道管が破裂し、床と言う床が水浸しなんて。
取り敢えず市の水道局の局長を叩き起こして修理の手配をさせ、連れてきたのは己の自宅。ホテルを取ると言ったのを押し留めたのに深い意味はない。ただ、こんなにもぐったりしてるハリーを、目の届きにくい場所へ置いておきたくはないと強く思った。
幾ら心身ともにくたびれ果てていると言え、西区の、明らかに有色人種の住民が多い住宅街で、白人の市長は間違いなく場違いな存在だった。築50年の古びた一軒家を見上げながら、ハリーは弱々しげに首を竦めた。チェスターコートが、蝶よ花よと育てられたお嬢様の纏った毛皮の外套に見える。
「君の家に来たのは初めてだな」
「そう言えばそうですね」
何もないところですけど、と恐縮しながらドアを開けてやり、30秒も保たない。奥の部屋から突き抜けてきた怒号に、男2人は飛び上がった。
「高校生じゃあるまいし、こんな夜中に騒がないでおくれ!」
「大丈夫だよ、グランマ!」
そう叫び返してから、モーは口の中で「今のが祖母です」と呟いた。これだけで済んでくれるよう心から祈ったが、結局スリッパ履きのばたばた騒々しい足音が、居間へ迫り来る。
埃っぽい張りぐるみのカウチ、壁へずらりとかけられた写真立て。お気に入りの空間へ紛れ込んだ異物へ、祖母は間違いなく機嫌を損ねた。
「こちらが市長のハーロウさん」
「マルタさんですね。こんな夜更けにすいません。そうでなくても、モデスティ君には本当にいつもお世話になっているのに」
ハリーが差し出した手を、祖母は胡散臭そうに眺めるばかりだった。
親族中から、お前は誰よりも彼女に似ていない、あの気の強さがあればもっと大物になれたのにと言われ続けてたが、今この時ばかりはへそ曲がりの遺伝子を有り難く思う。キルトのガウンに包まれ、白髪に艶は無くなっていたが、若き日の美貌は十分に窺い知れる──ペネロペ・クルスを10倍きつくしたような顔立ちが柳眉を吊り上げると、幼い頃のモーはすぐさま震え上がり「ごめんなさい」と叫んだものだった。海兵隊で幾つ勲章を貰っても、その記憶は薄れない。
「ああ、孫から話は聞いているよ」
喉はからから、戦々恐々と見守るモーを卒倒させようとでも言うのか、尊大に鼻を鳴らすと、祖母は大義そうな身のこなしで踵を返した。
「部下を定時に帰らせることも出来ないどころか、こんな真夜中に呼び付けるなんて、とんだグズらしいね」
「すいません、祖母は誰に対してもああで……それに、同性愛者に対する偏見が強いので」
「元気なお婆ちゃんじゃないか」
生憎この家には客室なんて洒落た部屋は存在しないので、自室へ案内する。本当は、祖母と会わせるのと同じ位、モーにとっては苦痛だったのだが──何せ、高校生の頃から殆ど変わっていない。
ハリーが風呂を使っている間に、壁へ貼ってあった『マトリックス リローデッド』のモニカ・ベルッチのポスターは破く勢いで剥がし、クローゼットに放り込んである。でも祖母が編んだベッドカバーや、CDやコミックのリーフが無作為に詰めてある本棚、せめて事前に知る事ができたら掃除機くらいかけたのに。
貸したモーのジャージもTシャツも明らかに大きく、部屋へ足を踏み入れる前に一度、ハリーはズボンを引き上げた。ぺたぺたと裸足の音を響かせ、室内を興味深げに見回しながら、「私室は意外と」と呟く。
「元海兵だし、職場ではあんなにデスク周りを綺麗にしてるから、もっと潔癖なのかと思ってた」
そこまで口にしてから、まだ微かに湿り気を残した髪の向こうで眉が下がる。
「ああ、僕が休みを与えないから、片付ける余裕もないんだな」
「祖母の言うことを真に受けないで下さい。週に2度は彼女が勝手に入ってきて、掃除機をかけてます……先程シーツは替えました。取り敢えず今夜は、ここで寝てください」
「君はどこで?」
「下の階のカウチにいます。何かあれば、申し訳ありませんが、大声を出すのではなくスマートフォンに連絡を」
「この時期に。風邪を引くぞ」
シーツへ滑り込みざま、ハリーは掴んだモーの腕をぐいぐいと引っ張った。
「セミダブルだ。狭いけど、2人なら眠れる」
「ハリー!」
「ほらほら、大声を出したら、またお婆ちゃんに怒られるぞ」
慌ててベッドへ這い上がったモーの鼻先で、軽やかな笑いが弾ける。一難去ってまた一難。いや、ハリーに取り憑いた疫病神は、今や自らの肩へ乗り移った。絡みつく脚に、モーは今夜が地獄になることを確信した。
喉元へ擦り寄る、自らが普段使うシャンプーの匂いで、部下がどれだけ沸るかなど、ハリーは全く頓着しない。
「セミダブルか。昔から大柄だったんだろう」
「ええ。中学生の頃には6フィートへ届きそうでした。正直コンプレックスでしたよ」
「背の高い人間は皆そう言うな。僕は後2インチ身長が欲しかった」
「無いものねだりですね」
そう呟いた唇ではなく、微かに引き攣っている頬へ、口付けは与えられる。
「ここで君が、どんな少年時代を過ごしたか、考えるのは楽しいな……待てよ。君は除隊してから、お婆さんと暮らし始めたんだろう」
「ここにあるものは、全部実家から運び込んだものなので、子供部屋と変わりませんよ」
普段よりも体温の高いハリーの背を撫でながら、モーは話し始めた。己が6歳の時、サウジアラビアで戦死した父のこと。スーパーのレジ打ちと掃除婦、メイドの仕事を掛け持ちし、3人の子供を育て上げた母。その間面倒を見てくれた祖母。高校を出て、父と同じ道に進む決意を固めて志願書にサインした日、勉強好きだった兄が大人になって初めて泣いたこと、妹に殴られたこと。何事もなく帰ってきたら、また妹は渾身の力で兄の頬をぶった。
「苦労をしたとは思っていません。寧ろ俺は成功者です。他ならぬ貴方に拾われたから……」
胸元でもぞもぞと手を蠢かしていたハリーは、皆まで言わせることをしなかった。伸びをするようにして、今度こそ唇を重ね合わせる。モーも受け入れた。そんなつもりは全く無いのに、何だか感傷的な気分になってしまった。
「誰が何と言おうと、君は偉いよ。努力を重ねてきた」
シャツの裾から手を潜り込ませ、腹筋の隆起を撫でながら、ハリーはしみじみと呟いた。
「周りはとやかく言うだろうが、エル達、それに僕だって、初めから上手に出来ていた訳じゃない。君はこの2年半で、信じられないくらい成長した。気付いてるか? 僕が就任した頃に比べて、市長室のコピー用紙の発注頻度が、月に1回から2か月に1回になった」
「本来はそれでも多い位だと思いますよ……」
「一足飛びに成長しようなんて思わなくていい。それに、今でも十分君は……冷たっ!」
ずり上がったズボンの裾から覗く脛に、爪先がぶつかったらしい。以前から君は冷え性だと言われていたから気を遣っていたのだが、モーは慌てて身を起こした。というか、これはまずい。危なく流されてしまうところだった。下では祖母が眠っている。彼女は耳が遠いものの、気配には敏感だ。喘ぎ声であることは把握できなくても、騒いでいることは簡単に察知するだろう。
「風呂へ入って来ます!」
「駄目だ! 市長権限で許さない!」
一喝し、ハリーは年下の秘書の体を再び毛布の中へ引き摺り込んだ。
「第一、もうこんな状態なのに」
彼は策士だ。膝を太腿へ擦り付ける動きで、ゆるゆるとモーの脚を割り、煽っていた。臍の辺りで蟠っていた手が、ズボンへと忍び入る。緩く芯を持っているペニスに赤面したモーへ、ハリーはにっこりと、聖母じみた、悪魔じみた笑みを浮かべて見せた。
ともだちにシェアしよう!