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腹上死とは言わせない

 何度か仕事の関係者と密談で使った事があるから知っているが、このモーテルは監視カメラがダミーだし、支払いがキャッシュなら身分証のコピーは不要、偽名も許される。幸い記帳は、先に来ていたマレーが済ませてくれていた。「8号室へおいで」と送られてきたテキストはポップアップだけ確認し、既読を付けなかった。  部屋へ入るなりバスルームへ駆け込んだヴェラスコを後目に、マレイはコンビニで買い込んだ安いスコッチを舐めている。他に紙袋の中へ入っているのは何だろう。酒? それとも避妊具? まさかローションとか? いや、果たしてガソリンスタンドへ併設の小さな店にそんなもの売っているのだろうか。自前で持ってこれば良かった。いまいち感度が悪い女の子への親切心で購入し、もう数年近く洗面台で埃を被っている使いさしを。いや、使用期限が切れているかも。ローションの使用期限? あれって傷んだりするのか?   扉を叩き閉めるまで我慢出来たのが奇跡だ。痛みと呼ぶ事すら憚られる、巨大な手で胸を鷲掴みにされたような衝動へ促され、ヴェラスコは蓋のひび割れた便器に向かい嘔吐した。苦い、多分殆ど胃液だ。荒れ狂う思考の中、一片の醒めた部分がそう断ずる。数日前から殆ど食べていない。純粋に食欲が湧かなかったし、そうした方が良いと、グーグルは教えてくれた。初めてアナルを犯される時は。  上手くやってきたつもりだった。ジェームズ・ボンドは所詮フィクション、スパイは地道で退屈な業務だったし、コストパフォーマンスも悪い。血路を開くと言うよりは、現状維持に用いるのが正しいのだろう。  すっかりルーティンに慣れきっていた。だから一週間前に19世紀風アメリカン・アイリッシュ料理屋でポリッジを食べながら「で、君はハリーと寝ているのか」とマレイに尋ねられ、こちらも全く何気ない風で「まあ、数度は」と言ってのける。彼は口の使い方が最高なんですよ、何せ元弁護士ですからね。ああ、貴方も既にとっちめられた事が?   プライドの高い男は逆質問を嫌うものだが、マレイは煮崩れそうな程柔らかいコンビーフを噛みつつ、暫く考え込んでいた。次に口が開かれるのは、ワインを含む為ではない。あのぞっとする、酷く蠱惑的だとハリーの褒める流し目が、対座した相手を絡め取る。 「彼がハンサムな事は認める。だが私は、どうせならもっとこう……君みたいなチャーミングなタイプが好みだな」  モリッシーなんか聞く奴は最低限でもバイセクシャル。それになるほど、己だって弁護士だ。  今朝届いたテキストには、レストランではなくモーテルの名前が指定されていた。お陰で飲んでいたコーヒーを全部吐き戻した。オフィスへ足を踏み入れた時も余程酷い顔色をしていたのだろう。あのゴードンが「二日酔いか」でも「2Hと一晩中か」でもなく「大丈夫か」と尋ねてくる始末だった。  大丈夫ではない、全く以って。こんな給油ついでにチョコバーを買うようなノリでバック・ヴァージンを散らされるなんて、想定していない。ちょっと変態趣味のある女の子とハメを外すか、それとも親愛なるイーリング市の市長へ遂に征服されるか──ハリーは結構本気で、こちらの尻を狙っていたように思う。こんな事なら彼に捧げておけば良かった。  泣き言は言うまい。頬を伝う滂沱と鼻水をハンカチでぐいぐい擦り、ヴェラスコは背筋を伸ばした。何食わぬ顔で片付けてやる。素知らぬふりでハリーや皆に報告してやる。いつか「まさかあの時そんな目に遭っていたなんて」と感嘆させるのだ──いや、気付かせすらするものか。やって当然の事をして見返りを求めるなんてさもしい真似、ヴィラロボス家の名折れが過ぎる。  左手首のブレゲを確認すれば、篭って30分。もしも己がマレイの立場で、女の子がそんな長時間の籠城を繰り広げたら、様子を見に来る。口に放り込んだ口臭消しタブレットは3つ。後は歯を磨けば誤魔化せるだろう。  いや、そのままでいい。気を遣うなんて馬鹿らしい。覚えた怒りは萎えていた脚に力を漲らせる。どしどしと乱暴な足取りで部屋へ戻れば、既にマレイは服を脱ぎ、ベッドへ横倒しになっている。  普段あれだけハリーをちくちく当て擦りながら、やる気満々じゃないか。「お待たせしました」ベッドへ滑り込み、ひたりと背中へ寄り添いながら唇に乗せた、形だけの謝罪。その声が嗄れ、殆ど捨て鉢の態でも、十分許容されるに違いない。  安物の分厚いグラスが手から滑り落ち、半分程残っていたウイスキーが染みだらけの絨毯へ吸い込まれる。マレイは一向に構わず、目を閉じていた。いや、半分位は開いている。黄色っぽい分泌液にまみれた唇と同じく……吐くほど嫌なら、変なマウントを取ろうとせず、今からでも拒絶してくれ。そう考えた事は覚えている。不自然に傾いた首へ指を当て、生ぬるい肌の下に脈が無いか探ったことも。記憶がないのは、そこから先、1時間程のことだったのではないかと思う。  棒のように横たわっていたベッドから身を起こし、床へ足を下ろしたのは夕方4時頃。その頃にはもう、冷たくなりつつあった多数党院内総務の死体から、視線を外す事がどうしても出来ない。のろのろと服を身につけながらヴェラスコが考えていたのは、これを知ったら両親は喜ぶだろうかという命題。いや、彼らは善人だ。不俱戴天の敵とは言え、その死を悼み、息子へ警察に通報するよう促すだろう。  911をコールする代わりに、ヴェラスコは震える指でスマートフォンからエリオットの番号を呼び出した。 「どうした?」 「まずいことになった、今そこには誰もいない?」 「ゴーディとオフィスにいる」  証拠にざざっとノイズが走り、「何だよ一体」とがなり立てるゴードンの声が遠ざかる。 「彼には聞こえないほうがいい話だね」 「ああ、いや、くそっ、分からない。どうしたらいいのか……とにかく、これはまずいよ、受付では顔を見られていない筈だけど……」 「ヴェラ、深呼吸して。それから何があったか教えてくれ」 「デイヴ・マレイが死んだ。彼とモーテルにいるけど、息をしてない」  沈黙は短かいか長いか、そんな些細な判断すら付かない。今は動きを止めてしまったマレイの分までバクバク心臓を高鳴らせ、ヴェラスコは啓示を待ち構えた。 「ヴェラ。今すぐ部屋の鍵を掛けろ。どこのモーテルにいるんだ」 「え、ワ、ワイクハム・イン、8号室。一番端の部屋」 「ワイクハム・インの8号室だな。大丈夫、今すぐゴーディと一緒に向かう」 「わか、った。ハリーには」 「心配しなくていい。もしも時間制で借りてるなら、受付に電話して一泊に変更しろ。何も触るなよ、絶対にそこを動くな。いいね?」 「エル、どうしよう」  狼狽は最後まで聞き届けられることがなく、通話は無慈悲に終了する。この期に及んで、ヴェラスコは己がすっかり汗だくになっていた事へ気付いたし、更に今再びどっと全身に冷たいものが吹き出す。  言われた事だけをやっている間も、スマートフォンは潰しそうなほど固く握りしめていた。ナイトテーブルへ放り出し、液晶の画面が暗転した頃、号泣したいと言う怒涛の衝動に襲い掛かられる。けれど、涙は一滴も出ない。燃え盛る頬と、ぐうっと詰まったような喉の息苦しさを覚えるばかり。  一体どうして、こんなことに。己はただ、ありふれた悪徳へ足を踏み入れようとしただけだ。誰かを傷付けるつもりはなかった。全ては合意の上で行なわれていた。  ぺったりと胸に貼りつくロザリオをシャツごと握りしめ、必死に息を通そうと喉を仰のかせる。神様、あんまりです。こんなに頑張っているのに、報われない。欲望を抱くとは、そんなにも悪い事なのでしょうか?  心中で嘆けば嘆くほど脳が熱暴走を起こし、怒りで閉塞した思考回路のお陰で意識が飛びそうになる。いっそそうなればいい。市会議員と市長側近の心中とでも、イーリング・クロニクルは書きたてるだろうか。  破裂しかけた笑いが引っ込んだのは、激しいノックの音が、現実へ引き戻したからだ。項垂れていた頭を起こし、凝らした息と共に凝視していたら、やがて聞き慣れた声が、小さく、けれど力強く、夕暮れに侵食された部屋へ差し込まれる。 「ヴェラ、僕だ。開けてくれ」  これは絶対に間違った判断だ。理解していたにも関わらず、ふらふらと歩み寄った扉を開錠した。  室内へ滑り込んで来たハリーは、ざっと一瞥しただけで全てを把握する。 「すまない、ヴェラ」  震える声と裏腹、ヴェラスコの両腕を掴む手の力は痛いほどだった。 「僕は君に、なんてことをさせたんだ」  その瞬間、ヴェラスコは解放された。涙を堪え、そして己が覚えていた苦痛を無視する為の、耐え難い忍従から。

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