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ママ、包丁を貸してよ

 「不謹慎な話だが」とエリオットは言って、額に浮かんだ大粒の汗を手首で拭った。暗がりの中でも、彼の黒い肌に白っぽい筋が一本走ったと見て取れる。普段からとにかく小綺麗な格好をしている男が深夜の泥遊び。 「こう言う場面が映画であったのを思い出した。『ゴッドファーザー』だったかな」 「『グッドフェローズ』だよ。あんたがデ・ニーロ、俺がジョー・ペシ。ヴェラが、えー、あの主演俳優の名前は何だ」 「モーは?」 「サミュエル・L・ジャクソン」 「出てたっけ」  懐中電灯を握る手までダウンジャケットの袖を引き上げ、ヴェラスコが鼻を啜る。 「監督、マーティン・スコセッシだろう」 「偉いぞ、よく覚えてるな」  軍手を嵌めた指だけではなく、用いていたスコップで駄目押しとばかりに示し、ゴードンは破顔した。 「吐くなよ。死者の尊厳を損なうな」  幸い鬱蒼と深い山肌はまだ凍っておらず、3人がかりで2時間頑張れば、6フィート近く掘り進めることが出来る。これだけ深ければ、マレイどころか、ここにいる全員を放り込んで埋め戻しても、野生動物に荒らされる事はないだろう。  「大至急アシュバーンのワイクハム・インへ迎え」と電話口で喚くゴードンに、「もう到着してる」と返してから2秒。投げつけられた悪態痛罵は、量も内容も勿論その声量も、聞くに堪えないものだった。  彼が到着した暁には殴り合い位する覚悟を決めていたが、あにはからんや。ゴードンはモーの傍らを素通りする。そのまま自らが仕えるべき市長の胸倉を掴むと、クロスの破れた壁へ力任せに体を叩きつけた。 「気でも狂ったのか! あんたここで何やってんだ!」 「ここ数日、ヴェラの様子がおかしかったから……書類を届けに行かせた序でにモーへ探らせたら、行方をくらませたってデイヴの秘書は言うし、GPSを調べたら案の定こんなところで」 「そこまで読めたなら、どうして俺やエリオットへ連絡しないんです」  ぎり、と上着のラペルごと捻り上げる勢いは、今にもシャツとまとめて布地を引きちぎってしまいかねない。ハリーが顔を歪めても、ゴードンが力を緩める気配は全くなかった。  短気な男だと以前から思っていたが、同時に間違いなく切れ者であるこの元ロビイストが、今ほど激昂している様を、モーは見たことがなかった。  力づくでも引き剥がさねばならないところ、手出し出来なかったのは、気迫に圧倒されてしまったのも勿論ある。だが決定打となったのは、脇腹に食い込んだ榴弾の破片へ耐えながら、苦痛を極限まで堪えている声で、絞り出された言葉を耳にしたからだ。 「何の為に俺達が雇われてると思ってるんだ。正義漢ぶるのもいい加減にしろ……お綺麗でいたいなら、あんたは何があっても、例え全部知っていたとしても、絶対にここへ来ちゃいけなかった」  この場の誰よりもハリーに忠誠を誓ってきたと自負していたモーは、その瞬間初めて、己が致命的な判断ミスを犯したと悟った。  みるみるうちに血の気を引かせるハリーと、彼以上に顔を青ずませるゴードンの間に、そっと割って入ったのはエリオットだった。 「仲違いは後だ。今の状況での最善を尽くそう」  暫くの間、ゴードンは血走った目でハリーを睨み付けていた。が、結局、彼の顔の横すれすれに、力任せの拳を叩きつけてから、身を翻す。いかった肩は、びくりと首を縮めたハリーを含め、様々なものを拒絶しているように見えたけれど、少なくとも妥協した事は間違いない。  偉大なるエリオットは、どんな時でも的確に行動する。用意のキャリーケースに全裸の死体と遺留品を詰める。「そのまま放置して、不審死に見せかけた方が良いのでは」と言うモーの意見は「君がハリーをここへ連れてきた時点で、それが通用しなくなった」と苦しげな微笑と共に返された。 「万が一ハリーに捜査の手が及んだ場合、このモーテル以外の監視カメラで、君達がここへ来た事を特定される可能性がある。アリバイを作るんだ。君は今すぐ一人で市庁舎へ戻って、私が連絡するまで待機してくれ。ゴーディ、もう一度マレイ議員の私物が残っていないか確認して、彼が触れていそうなところの拭き取りを頼む」  ゴードンにタオルを投げ寄越し、取り出したジップロックに詰められた色も長さも様々な髪を枕の上に数本、絨毯の上に数本と撒きながら、エリオットは淀みなく指示を重ねていく。 「ヴェラ、落ち着いたかい」 「あ、ああ、うん……」 「さっきウェブから、ドナルド・ジョンソン名義でここのツインルームを予約した。フロントへ行って鍵を受け取ってきて欲しい。現金払いだけど、手持ちは?」 「大丈夫」 「ハリーと一緒にその部屋で3時間待機した後、彼を家へ送ってくれ。君も自宅に戻っていい、半休申請は出してある」 「なあ、エル、議員を一体」  ヴェラスコの問いかけは振り向けられた眼差しのみで遮られる。徹底的に感情を排した、或いはそうあろうと死に物狂いになっているエリオットの瞳は、そのままハリーの方へすっと流れた。 「これ以上、ここでは言えない」  ゴードンの狼藉で限界まで硬直していたと思っていたハリーの身体が、更に凍りつく。まるで壁へ同化しようとしているかの如く、背は強く押し付けられた。  すっかり怯えきった市長の元へ駆けつけ、その身を潰れる程掻き抱いてやりたいと、どれ程強く願っただろう。けれど普段からジャーヘッドなどと散々からかわれる己の頭脳でも、今すべきことはモーも理解していた。  本当は、この場にいる誰とも同じくらい緊張していることは、暖房も入れない部屋で額に汗を浮かべていることから容易に察せられる。けれどもエリオットは、無言の仲間達を見回すと、微笑んでみせた。 「心配はいらないよ。マレイは棺桶を担ぐ人間を8人見つけるのも苦労しそうな程、皆に嫌われていた。慎重に行動すれば、何も恐れる必要なんてない」  まずキャリーケースをマレイのベンツに積んだゴードンが出ていき、次に2ブロック先へ車を停めているエリオットが立ち去る。「大丈夫か」と何度も繰り返され、同じ回数だけ頷いて見せたヴェラスコがフロントへ向かったのを確認してから、モーはハリーに向き直った。 「市長、申し訳ありません」  一歩歩み寄れば、ハリーは自身の肩を抱くようにし、益々壁に身を竦める。 「ゴーディの言う通りだ。とんだ大失態だな」  そんなことありませんよ、と庇われる事を、ハリーは一切望んでいない。それどころか、下手な慰めは彼を傷つけすらするだろう。 「大丈夫だ。ヴェラは任せろ……君にも迷惑をかける」 「俺の事は構わないんです」 「許してくれとは言わない、そんなこと、とても言えないが……自分を犠牲にはしないでくれ」  今しなくていつするんです? この身はもはや国ではなく、あなたへ捧げているのに。  慰めも美辞麗句も、胸から溢れ出しそうな程思いつく。けれどモーは、「さあ」とハリーに促されるまま、固く口を噤み、その場を後にした。  結局、エリオットから電話が掛かってきたのは定時を2時間程過ぎた頃。指定された場所は、マッキール・ヒルにあるニボ山の奥深くだった。他ならぬマレイが、己の所有する建築会社で出た廃材を不法投棄していると噂されている土地。この街で生まれ育ったモーでも、カーナビゲーションに頼らねばならない辺鄙な場所だった。 「遅いぞ、何グズグズしてやがった」  さながら朝のミーティングへ遅れてきたような口調で怒鳴るゴードンも、地面へ突き刺したスコップへ寄りかかりミネラルウォーターを飲んでいたエリオットも、すっかり泥にまみれている。汚れは、唯一綺麗な服装と腫れた目をしたヴェラスコに(ふてくされた様子で「僕一人だけ泥を被らない訳には行かない」と彼が吐き捨てれば、ゴードンは狂ったように爆笑した)懐中電灯に照らされると、染み付いて時間の経過した血に見えた。  実際、幾らかは混ざっていたのかもしれない。モーは4フィート程の穴を覗き込んだ。歯を砕いたのだろう。モーテルではせいぜい鼻血と吐瀉物にまみれるだけだったマレイの端正な顔は、恐らくスコップで滅多打ちにされ、原型を留めていない。 「全く、改めてエル・エリオットの手並みの鮮やかさと言えば、脱帽ものだな。ホーボーケン出身者は皆こうなのか」 「私自身は経験がないよ」  そう、経験があるのは己に他ならない。天を突く木々へ闇ごと覆い隠され、安心したのかも知れない。或いは、経験を思い出し、生かす事ができる瞬間が遂にやって来て力が漲ったのだろうか。 「これでは浅過ぎます。2倍は深く掘らないと」  これ見よがしに投げ出してあった3本目のスコップを拾い上げ、モーは引き摺り込まれるように、穴の中へ飛び込んだ。

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