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大きな大きな独り言

 後片付けをゴードンとモーに頼み、ヴェラスコを家へ送る。とにかく今日、彼は余りにも色々なことを経験し過ぎた。その中の幾つかは勿論、エリオット自身も初めて遭遇するものだ。傷を舐め合うなんて言葉は使いたくなかったし、ましてや共有などと甘言を囁き、これ以上負担を強いらせるのはあまりに惨い。  だからこそ、コンドミニアムの駐車場でお暇する予定だった。「家に上がる?」と俯いたまま提案したのはヴェラスコからだ。「泥だらけだし……正直、今夜は1人になりたくない」  シャワーを借り、出してあったジャージを身につけて戻ったエリオットを目にし、ヴェラスコは濡れ髪の向こうでぷっと吹き出した。 「エル・エリオットがプーマなんて。寝る時でもスーツ着てそうなのに」 「残念だったね、ベッドでは全裸派なんだ」 「嘘だよな?」 「嘘だよ」  正直今は美味いスコッチを雑に飲みたい気分だった。けれどエリオットは、差し出されたバドワイザーを受け取り、プルタブを引く。 「もう大丈夫、枕を高くして眠れるよ。マレイの車はゴーディが処分する。議員の前妻や子供達も、寧ろ彼がいない方がマレイ・コーポレートの経営的に良いはずだ。探しはするだろうけど、積極的じゃないと思うよ」 「どうかな。僕がローファームに勤めてた時は、例えどれだけ仲が悪くても、失踪人を必死に探さない家族は居なかった」 「私がシンクタンクにいた時は逆だったよ」  冷えている事だけが取り柄の、薄めた小便じみたビールを半分ほど飲み下し、エリオットは微笑を作った。 「もしもの時は、私とゴーディが責任を取る」  己が警察の取調室で、ぺらぺら自白している姿なら、容易に想像できる。ええ、昼下がりの情事と洒落込んだんです。そうしたら、彼が急に、呻き声を上げて倒れて……当然ですよね、あれだけバイアグラを飲んでいたら──マレイの上着のポケットから出て来た、オレンジ色をした薬ケースのラベルを読み上げ、ゴードンは腹が捩れ切れそうになるほど笑っていた──ええ、ええ、彼も張り切っていたんです。少なくとも私とファックする時は、いつもそうでした。  大半が事実の与太は、あっさり信じられるはずだ。少なくとも、とっとと解決したい警察は、気取ったインテリの黒人にお灸を据える為、嬉々としてそのままの内容を調書へ記載するに違いない。  この坊やだって弁護士の端くれで、今は小規模と言え政界に飛び込み、その水の中で呼吸している。例え部外者の2人が自首したところで、ハリーの名声へ致命的な傷が付くことは百も承知だろう。けれどカウチに腰掛けたヴェラスコは、こくりと頷いて、両手に抱えたビールをちびちびと啜っている。ここまで来れば、後はなるようにしかならないと、理解しているし、そうあろう、賢くあろうと努めていた。  改めて、可哀想なことをしてしまったとつくづく思う。  彼自身の選択とは言え、一味の誰一人として、事態がここまで悪化するのを止めなかった。ハニートラップはこんな、世間の狭い地方都市でやるにはリスクが高過ぎる。  今なら認められるが、漫然と放置していた理由として、一欠片も悪意が無かったとは断言出来ない。可愛いハリーの後輩、誰よりも古馴染みの親しい存在だと事あるごとに誇示吹聴するお調子者の、お手並みを拝見と言う訳だ。これはきっと、ゴードンやモーだって──この期に及んで、周りを巻き込むのは止めよう。目の前の男の身に、あってはならない事が起きた。その事実は揺らぎようがない。 「繰り返すが、マレイが亡くなったのは君のせいじゃないんだ」 「言わなくていい」  カウチの中でぎゅっと脚を縮め、ヴェラスコは首を横に振った。 「酷いミスだ。ハリーの今後を考えるなら、あんな悪手」 「今はハリーのことは考えるな。辛い思いをしたのは君自身に他ならないんだから」 「いや、聞いてくれ」  べこ、とアルミ缶のへこむを響かせる指先と同じく、見つめ返すヴェラスコの眼差しは末端でまでくまなく緊張が張り巡らされていた。だからエリオットも、腹を括らざるを得ない──本当のことを言えば、怒りを込めて振り返ったところで、良いことなど何もないと、彼はこれまでの経験から知っていた。少なくとも己は、その手の感情で発奮するタイプではない。 「僕はこれまで、余りにも独善的過ぎた。今回の失敗は、間違いなく僕自身の驕りが招いたものだ」  その通りだね、と言う代わりに、エリオットは間接照明のオレンジ色をした光の中でも、酷く青ざめていると分かるヴェラスコの顔へ注意深く目を配り、次の言葉を待ち受けていた。一つの文節を喉から絞り出し、舌の上へ乗せる度、ヴェラスコは苦痛を覚えている。だが話を止める気だけは、全く無いようだった。 「上手く言えないんだけど……僕は今まで、少なくとも感情面では、チームの中でも一匹狼だと思ってた。君とゴーディみたいに結託していない。かと言ってモーみたくハリーを無条件に崇拝している訳でもない。誰とでも適度な距離を保って、ある程度の好感を持たれていたと」 「まさしくそうだと思うよ。君の立ち回りの巧みさと愛嬌は、正直このチームで非常に役に立ってる。だから負担が過重に陥っていたし……」 「それこそが驕りなんだ」  きっと睨み付ける切れ長の眦には、涙の粒が膨らんでいる。拭うどころか、まるで見せつけるように、ヴェラスコは身を乗り出した。 「マレイと一つのベッドに滑り込んだ時、僕は、ハリーのことを考えた。正直に言うと、心の中で彼に縋ったんだ。情けないよな。普段あれだけモーの忠犬ぶりを馬鹿にしてたのに」  つと唐突に立ち上がり、キッチンへ向かう後ろ姿はほんの数歩の距離で一瞬よろめく。まさかビールで酔うはずもないだろう。鎮静剤でも飲んだのかも知れない。追いかけようと腰を上げた時、エリオット自身も危うくたたらを踏みそうになる。まるで先程まみれていた泥が、未だ足元へ纏わりついているかのようだ。肉体の範疇を超え、己が酷く疲弊しているのだと、今更理解する。 「ヴェラ、もう寝た方がいい。眠れなくても、横になっていれば、少しは身体も休まる」 「僕はハリーを愛してる」  冷蔵庫から取り出した新たなバドは、一息で飲み干される。ゴミ箱に落し、ヴェラスコは上下する肩へ触れたエリオットを見上げた。 「彼の可能性を信じてる。彼に有り金を全部賭けた。でも同時に、愛してるんだ……それって、絶対間違ってる」 「間違っていないよ」  皆の弟ヴェラスコ・ヴィラロボス。だがこの瞬間、エリオットは彼の事を、血で繋がった兄弟のように感じた。  だからこそ、こんなにも苦く疼くような憐れみを覚えるのだろう。 「このチームにいる誰だってそうさ。しかも、報われない愛と来てる」 「エル、僕はやり切れない」 「全くだ」  そのまま居間まで誘導し、カウチヘ横たわらせた体へ毛布を掛けてやる。立ち上がろうとすれば、よれたジャージの裾を掴まれた。 「今夜は泊まらせて貰うよ。出来たら強い酒が欲しいんだけど、家にあるかい」 「なあ、さっきのことは、ハリーに」 「話すもんか」  宥めるように手の甲を叩いてやり、エリオットは、心底相手を安心させてやりたいと願いながら微笑んだ。 「モーにも、ゴーディにも」 「さっきのゴーディの剣幕、凄かったな」  疲労の滲んだ顔が、その笑みを浮かべた瞬間だけ、さっと常の鼻っ柱の強さを取り戻す。うじうじされるよりも、こちらの方がよっぽどいい。寧ろ好ましいとすら言える。 「本気でハリーを殴るかと思った」 「許してやれ。あいつは案外熱血漢だから」 「ああ、良い奴だと思う」  ふわあ、と柔らかく欠伸を漏らし、寝返りを打ちざま、ヴェラスコはキッチンを指さした。 「ジム・ビームで良ければ食器棚にあるけど。一番下の引出」 「頂こう」  瓶とグラスを手に戻り、どしんと一人掛け用のカウチにエリオットが埋まるや、ヴェラスコは「エル」と再び囁いた。 「もしも僕がハリーに尻を掘られることになったら、作法を教えてくれ……いや、あんたで一回試してもいいのかも」 「君、本当に寝たほうがいいよ」  短い沈黙の後、ヴェラスコは呂律の怪しい、けれど決然とした声音で「そうだな」と答えた。  何だかとんでもないことを言われたような気がするが、今日一日の中で起こったことに比べれば取るに足らない。これ以上の厄介は絶対ごめんだった。  冗談抜きで、ゴードンはあの時、ハリーを一発位殴っても一向に構わなかったのだ。  そう考えてしまう時点で、己も正常な判断力など失っている。思ったよりも早く聞こえ始めた寝息に耳を傾けながら、エリオットはまだ殆ど減っていないウイスキーの瓶からグラスへなみなみと注ぎ、最初の一口を喉へ流し込んだ。

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