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バタ屋街のユダ
スーパーで漂白剤とタオル、ゴム手袋とゴミ袋、スリッパを購入する。店の裏に回り、テナントで入っているグレート・クリップスのダストボックスから切り落とされた髪を一掴み手に入れる。
全くエリオットの手際は鮮やかなものだった。万雷の拍手で称賛してやりたいところだった。もちろん、そんな真似彼への侮辱に他ならないから、ゴードンはただ笑うだけに留める。
本当に傑作だったと、思い返す度に顔がニヤつきへ染まる。ヴェラシータは赤ん坊のように泣き、ジャーヘッドはでかい図体で右往左往、我らが親愛なる市長殿は相変わらず善意を振りかざし、周囲を片っ端から苛つかせる。
そう、彼は普段と変わらなかった。こんなにもキレそうになっているのは、受容側の問題に他ならない。
必要以上の後悔など時間の無駄だし、以降の業務に悪影響しか及ばさないので、出来るだけ工数から省くよう努めてきたつもりだった。けれど、今回ばかりは。考える時間も山ほどある。ベンツのハンドルへしがみつくようにして、白み始めた空気に浮かび上がるテールライトやヘッドライトを見つめながら、ゴードンは先程モーテルで起こった出来事を反芻していた。
弁護士特有の小賢しい面は否定できない。案外気短だし、何よりも意欲的だ(実は正常位と同じ位騎乗位も好きなんだよ、と以前情報事の後にきまり悪げな笑みで告げられて以来、己の腰の具合さえ良ければ腹の上で好きに踊らせてやることが増えていた)だが基本的にハリー・ハーロウという人物は、側近にとって非常に仕事がしやすい人物だった。
今回だって、まさか何も知らないまま話が進むとは思っていなかったし、最悪嫌われ役を演じることも十二分に想定の範囲内だった。蜥蜴の尻尾は切り落とされる為にある。頭さえ無事ならば、幾らでも新しく再生されるのだから。そんなこと、市長を担ぎ上げる事になった時点で、誰もが覚悟していた。覚悟していなければならない事だった。
腹を括っていなかったのはハリーだけ。よもや汚れた尻尾の先端を守る為、頭が全力で戦おうとするなんて、誰が考えるだろう。
怒りは世間では称賛される、甘さと呼ばれるものに対してのものだった。けれどエリオットは山の中で穴を掘っている最中、「気持ちは分かるが、あれはやり過ぎだ」と窘めた。「お前はそういうところ、本当に優しいな」
そんな事、娘が産まれて以来元妻にすら言われた事がない。侮辱すら感じた。それは間違ってると、エル・エリオットへ盛大な反論をぶつけたくて堪らなかった。
久しぶりの長距離ドライブは全身に来た。後1時間運転し続けていたら、ケツが4つに割れていたかもしれない。
実際、時計の針だけで換算すれば、時差を考慮しても13時間の大移動。エリオットが地図アプリに打ち込んだ住所は、ニューアーク・リバティ国際空港に程近い小さなスクラップ置き場だった。何だこれは、冗談抜きで、ジョー・ペシが出てくる映画の世界へ紛れ込んだんじゃないのか。別に己が清廉潔白だと言うつもりはないが、こんなのまるで現実味がない。
予めエリオットが連絡していたので、その男は1人で待っていた。
「ライオネル・デアンジェリス?」
「ああ。あんたの名前は聞かない、エリオット・ファーマーの知り合いだよな」
ゴードンとそれほど歳の変わらない、全身に刺青をごろごろ入れた白人男性を、マッキントッシュのスーツを愛用しているエル・エリオットと結びつけることはなかなか難しい。けれど彼だって、オーダーメイドシャツの下にこっそりフルバック・タトゥーを入れていたりするような人間だから、実際のところは……
実際のところ、彼がギャングスタだろうと悪魔だろうとネオナチだろうと、何だって構わなかった。今はこの繋がりに感謝しよう。
引き渡されたベンツを目にし、デアンジェリスは「勿体無いな、いい車なのに」と顎を撫でた。
「おい、分かってるだろうが……」
「分かってるって」
その男は何となく、15時間ほど前に土中へ埋めた男を彷彿とさせた。ハンサムで、言動が鼻持ちならないのに、いや、だからこそ人を惹きつける。経験上、ゴードンが出会ってきたこの手のタイプの人間はほぼ全員ペテン師だったが、エリオットは信用できるという。幼馴染だし、何よりもペテン師を手懐ける方法なら、彼らは熟知していた。
車を解体工場に引き込み、デアンジェリスがエアバッグやらエアコンなどを取り外している間に、ゴードンは容易の封筒を取り出してみせた。見せようと声をかけたが、「いいって」と車の下から手が振られる。
「あいつは、俺があいつの実家の住所を覚えてるって知ってる。もしも不足があったら、俺が直々にお袋さんの股へ箒を突っ込んで、頭を踏み潰すってこともな」
「そういうイキった言動で脅そうとしても無駄だぜ。こちとらボルチモアの老人ホームに欠陥建材を使うよう積極的に働きかけて、100人単位の老人を肺気腫で殺した前科を持ってるんでな」
「爺さん婆さんなんて放っといてもくたばるさ」
ははは、とわざとらしい笑い方は、マレイが下町で生まれ育ったらこんな振る舞いをするようになるだろうと思えるもの。思わず眉間に皺を寄せるゴードンを更に苛立たせるよう、デアンジェリスは彼の背後を的確に指差す。
「それに、直接手を下したことはないだろう……壁へ貼ってある表に、釜山って書いた行がある。直近の日付は?」
「明後日」
「じゃあ、それへ積み込もう。書類も準備しておくから、あとはFBIだろうがCIAだろうが、追跡は不可能だ」
そこから先は、昔深夜にテレビで観たB級映画の焼き直しだった。夕闇の中、巨大な電磁石の付いたクレーンで吊り上げた車体を、破砕機の中へ落としてブロック状に固める。入り口に程近い廃棄場所まで元ベンツを運ぶフォークリフトが、着陸体制に入った旅客機のエンジン音でグラグラ揺れて見えた。
全て心得ているエリオットは、そこまで見届けてこいと命じた。本当は船積までいて欲しいけれど、明日には遊園地へ舞い戻って、コンクリート業者との話し合いに応じて貰わないと、本当に悪いね(彼は悪くない、全く忌々しい労働組合め!)
「エリオットには何度か世話になってる。弟も奴の紹介で、無事治療センターに入れたしな……あいつのよしみで、フロン処理代はさっ引いとく」
「いいさ、全額払う」
「ニックが怒るんだよ。昔馴染から金を毟るなって」
書類を記入しながら、デアンジェリスは「領収書はいるか」と尋ねた。思わず吹き出しそうになったのは、己がうっかり頷きかけたからだ。
危ない、些細とはいえ、悪意へ乗せられそうになった。ペテン師を相手にする、基本中の基本。「絶対に相手へ心を許すな」
そう考えれば、ハリーの悪意なんて、所詮は弁護士先生の理想論で凝り固まった、軽いジャブのようなものでしかない。人を殺したことはあるかもしれないが、それは結局のところ、対極へいる誰かを救おうとしての行為だ。カルネアデスの板だったか? そもそも己は、あの理屈を議論の俎上へ乗せるまでもないと、大学の講義で聞いた時からずっと思っている──人が持っているものを奪いに行って突き飛ばされたのなら、それは間違いなく自業自得だ。
ペテン師は権利を掠め取るもの。弁護士は権利を守るもの。政治家は権利を奪い返すもの。どれだけゴードンやエリオットが導こうとしても、ハリーは最後の最後で、弁護士の優しさを思い出してしまう。それが気に食わない。
だから心を許してしまう。愛してしまった。
でも、彼には一刻も早く政治家になって貰わないと。議員時代を含めれば、もう5年以上この世界を歩いているはずなのに。まだヴェラスコの方が、よほど覚悟を決めている。
「イーリングだって? エリオットはワシントンD.C.にいるのかと思ってた」
「まだあっちの住人さ」
咄嗟に付いた嘘を、幸いデアンジェリスは追求しなかった。書類の控えを胸ポケットにしまい、ゴードンはウーバーを呼ぼうとスマートフォンを取り出した。テキストが3件。娘からだというのはポップアップの時点で分かっていたのに、既読を付けないどころか、思わず舌打ちしてしまった己を、本来猛省すべきなのだろう。不眠不休、しかも殆どが肉体労働だ。帰りの飛行機ではよく眠れるだろう。
「あそこの空港、シカゴ行きの便は出てるかね」
「シカゴ? さあ、多分出てるんじゃないか。腐っても国際空港だからな」
「じゃあ歩くか」
「馬鹿言え、確かに目の前へ見えるが、2時間は掛かるぞ」
呆れたように首を振るデアンジェリスに、ゴードンは今度こそ、同じペテン師の仕草で肩を竦めてみせた。
「考え事をするには、ちょうどいい距離さ」
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