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チェリージャムって柄じゃない
「あー! また僕のアイス勝手に食べただろ!」
頭を突っ込むようにして冷凍室を漁りながら、ヴェラスコが声を張り上げる。
「今月に入って3度目なんだけど」
「知らねえよ、食ったの忘れてるんじゃないのか」
椅子を軋ませて振り返ったゴードンの手には、ほかほかと湯気を立てるケバブサンドが乗せられている。あんな温かいコピー用紙みたいなものよく食べる気になれると思うが、憎まれ口は10倍で叩き返されるだろう。例えば「35歳にもなって、まだ婆ちゃんへ弁当作って貰ってる癖に」とか。
別に毎日作って貰ってはいない。今日はたまたまだ。チルド室から取り出したサンドイッチの紙袋を回収し、市長室へ戻ろうとしていたモーは、その時気付いた。何故かヴェラスコの恨みがましい目つきは、こちらへ向けられている。
付き合っていたら昼食を食いっぱぐれそうだが、仕方なく背中を丸め、冷蔵庫を覗き込んだ。
「バスキン・ロビンス、フレーバーはコットン・キャンディ」
確かに、あの一発で分かる色遣いのカップは見当たらない。
市長付職員オフィスに小さな冷蔵庫が運び込まれたのは昨年のこと。仮眠用のソファと違い、これにはモーも資金を提供した。このフロアには食べ物を冷蔵できる設備がなく、夏にはうっかりすると卵のペーストなどが傷んだりする。かと言って下の階のバックヤードを使うのも面倒だ。
まるで待ち構えていたかの如く、到着したその日に冷蔵庫の中はぱんぱんになっていた。備蓄物にはそれぞれの個性が反映される。モーは昼食やプロテイン・シェイク、非常食の野菜スティック。エリオットが常に3本、未開封でストックされた状態を保つガラスボトルのエヴィアン。ゴードンは何故かチーズやカップ入りの魚介ムースなど、匂いのきついものを積み上げた一角を構築し、皆の顰蹙を買った。
ヴェラスコはもっぱら、本人が頭脳労働者の必需品だと主張する菓子やアイスクリームを放り込んでいる。それが消えた。自分が入れた覚えのないものには手を出さないと言う暗黙の了解により、これまで付箋を貼ったりはしていなかったが、そろそろ考えても良いかもしれない。
「なんで僕のだけ無くなるんだよ」
「どうやら下手人は甘党らしいね。私もこの前、イータリーで買ったチョコレートケーキを食べられたよ」
「ヘーゼルナッツの? ごめん、それは僕……また買い直しておくつもりだった」
「頼むよ」
そう笑いながらヴェラスコを指差すエリオットは、口元の湾曲と裏腹、声の調子はあくまで本気だった。
「となると、やっぱりアイスクリームはゴーディかい」
「馬鹿言え、俺も被害者だ。買ったばかりのエダムチーズ、ごっそり攫われたからな」
渋面を深めるゴードンに、ふと思い立ってモーも四角い保存容器を取り出した。
「やっぱり……」
「野菜スティック?」
「気のせいかと思ってたが、ニンジンだけ極端に減ってる」
そう口にしてから、思わず顰めた顔を向けた相手は、「皆もう飯食ったのか」と部屋へ足を踏み入れた、この街の市長。彼を目にした途端、記憶が結びつく。
「ハリー、この前執務室で夜食に、物凄い匂いのチーズを食べてましたよね、クラッカーと一緒に」
「ああ、冷蔵庫から借りたよ」
何でもない顔で、ハリーは肩を竦めた。
「君はチーズが苦手だったな、そう言えば」
「もしかして、ここにあるのは皆の共有財産だと思ってます?」
ヴェラスコの難詰に、ハリーがきょとんとしているものだから、「何でそうなるんですか!」とゴードンが嘆きの銅鑼声を張り上げる。
「こんなしみったれた事言いたか無いですがね……」
「あー……なるほど、道理でみんな、僕のジャムを誰も食べないと思ってたんだ」
ハリーが目を見開いた時、モーが一番に思ったのは、市長も料理をするのかということだった。想像するのはさして難しくない──いつまで経っても生活感のないコンドミニアムの中でも、一際ぴかぴかのキッチン。半月前、起き抜けのモーがコーヒーを淹れてやった時使った臙脂色のエプロンを掛けて、二口コンロの前に立つハリー。鍋の中ではくつくつとあぶくを吹きながら、苺が煮詰められている。スプーンで一匙掬い、ふーっと湯気を払うと、彼は艶めかしい微笑と共に甘いジャムをこちらへ差し出し──
甘美な妄想を打ち破ったのは、憤懣やるかたないと言わんばかりなヴェラスコの糾弾だった。
「酷いですよ、せっかく楽しみに取ってたのに。ヤンファン少数党院内総務から、明日の定例議会で採決されるトリファー区の再開発に関する賛成票を取り付けたお祝いで」
「悪かった、君の貢献には多大な感謝を抱いてるし……明日買ってくるよ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「食い物の恨みは恐ろしいな」
肩を竦めるゴードンに、ハリーは明らかに臍を曲げた。冷蔵庫からエヴィアンのボトルを取り出し、封を切る。
「そう言う君は、冷蔵庫を片付けろよ。この恐ろしい魚の塩漬け、鼻が曲がりそうだ。ユダヤ料理かい」
「確かスウェーデンの名産品だったと思いますがね。あとそのミネラルウォーター、エルのですよ」
「ややこしいな、もうみんな、無くなったものを各自メールしてくれ。まとめてターゲットで注文する」
一息にボトル半分ほど飲んでしまうと、濡れた唇を手の甲で拭う。柔らかい粘膜を無意識に目で追っていたモーに、脳内で浮かべていたのと寸分違わぬ笑みを、ハリーは振り撒いた。
「君はそんなケチじゃないだろう、モー。僕が野菜スティックを食べた位じゃ、腹を立てない」
「最近野菜は高いんですよ」
「うるさい、ヴェラ。こんな時期にアイスなんて……大体、最近君、また顔がむくみ気味だぞ」
突っ立っているモーの、保存容器を抱えた両手に、するりと手のひらが這わされる。
「むくみにはカリウムだな。セロリを食えよ。モーを見習って……僕はニンジンを貰う」
蓋が外され、種類ごとに整然と詰められた野菜のうち、オレンジ色の小山から半分ほど掴み出す。一本を、真正面から、ことさらゆっくりと口へ送り込む仕草──3日前だったろうか? デスクでタイピングに苦戦していたモーの手を取って「キーボードを叩くより、銃の引き金が似合う、男らしい手だな。凄く大きいし」そのまま中指を含んで、頬の粘膜に触れさせてから、すぐに取り出す。もう一度招き入れた時、ハリーの上目は、明確に仕事の中断を命じていた。
「あーあ、だらしねえ顔」
わざとらしく天を仰ぐゴードンに、エリオットも苦笑して「はい、ご馳走様」と先程買ってきたガパオライスのテイクアウト・ボックスを開く。
「ところでハリー、君はまだ昼を食べていないのかい」
「そうだ、すっかり忘れてた。誰か誘おうと思ってたんだ」
「僕とゴーディは、さっきマクドナルドで買ってきました」
「君、冗談抜きで食生活を改善した方がいいぞ……モー、君は? まさかそんな野菜スティックだけで済ますつもりじゃ無いだろうな」
モーは問答無用で、サンドウィッチをヴェラスコに押し付けた。
「ご一緒します」
「あー、また太る」
がさがさと紙袋を開いて中を覗き込み、ヴェラスコが溜息をつく。
「こんな脂身の多くて舌が痺れる塩辛いソーセージ、今時普通のスーパーで売ってないよな」
「何だかんだ言って好きな癖に」
「おいしいんだから仕方ないだろ」
「料理上手なお婆ちゃんと同棲とは、羨ましい限り」
席へ戻る道すがら、傍らを通りかかったヴェラスコの手から袋を奪い取ったゴードンは、当たり前のような顔で中から2切れ取り出した。
「身体に悪いものは美味いんだよ……お一ついかが、エル・エリオット」
「頂こう」
グランマ・マルタのサンドウィッチは皆の大好物。普段ですら、まるで小学生のように、昨日のサラダ入りのが一つと一口ホットドッグ一つ、と言った具合で、交換される事が多かった。
「彼女が名コックなのは周知の事実だけど、君が料理上手な事は皆知らないんだろうな」
エレベーターに乗り込みざま、ハリーが悪戯っぽく笑う。
「君が家に来た時、毎回作ってくれるカルド・デ・ポロ(チキンスープ)は絶品だ。5回射精した後でも食べられる」
自らが疲弊させた身体を労っての献立なのだから当然の話。それにあれは、一度ヴェラスコが熱を出した時に作って持って行ってやった事があると、モーは口にしない。
「もしも来期落選しても、君をハウスキーパーに雇うよ。僕の為に毎日スープを作ってくれ」
だって、こんな、まるでコットン・キャンディよりも甘い睦言。プロポーズも同然ではないか。
昼休みの後、何とかして30分、2人きりの時間を作れないだろうか。まだ何を食べるか決めるどころか、エレベーターが一階へ到着するより早く、モーは今日の予定を必死に思い出していた。
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