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民主主義と平和を500年続ける為に
本当に乗られないんですか、と案内してくれていた園長に5回は聞かれたが、ハリーは頑なだった。ブリック・ブラックキャットの丸いロゴが円の中心に取り付けられた、州で一番大きな観覧車を見上げ、溜息をつく。
「言ったろう。僕は高所恐怖症でね。ショッピングモールの2階の吹き抜けでも下を覗けないんだ」
忠実なる秘書モー・テートは「俺も残ります」と抗ったが、命令を下されれば仕方ない。いい年した男4人、ピンク色のゴンドラへ乗り込まされる。
「屁をこくなよ」
対面でこちらを睨みつけるモーへ軽く肩を竦めて、ゴードンが隣のエリオットを肘でつつく。
「それにしても、海兵が観覧車を怖がるとはな」
「分かるよ、進行方向に身体が正面が向いていない乗り物は酔いやすいね」
「それもありますけど」
そんな大柄な身体、しかもダウンジャケットで風船のように着膨れていると来ている。駄目押しとばかりにガサゴソするから、隣のヴェラスコとしては堪ったものではない。舌打ちしている彼などお構いなしに、寒さ以外で少し顔色を悪くしたモーは、乾いた唇を舐めた。
「子供の頃、父とテレビで映画を観ました。観覧車を使った恐ろしい場面のある」
「『第三の男』だね」
「その後、実際に遊園地で観覧車に乗ったとき、俺達兄妹が余りにも騒いだものですから、父がキレて言ったんです。『少しのはその口を閉じないと、あの映画みたいに、頂上へ着いた途端 ゴンドラからまとめて放り出してやるからな』って」
「オーソン・ウェルズならやりかねないけど、ちょっと違うらしい」
「ウェルズって「市民ケーン」の監督だったっけ」
うんざりしていることを取り繕ってやったりなどしない。外套の防虫剤とペンキ、少しの汗とゴードンが付けるシャネルの香水の匂いが充満したぬるい空気をどうにかしようと、ヴェラスコは窓へ手を伸ばした。残念ながらはめ込み式だ。とち狂った海兵隊員が子供を放り落とさないように。或いは、哀れなこの街の市長付広報官が身投げを出来ないように。
「取り敢えずハリーと繋ぐよ……ここ電波弱いな」
発信しつつガラス越しに手を振れば、まだ辛うじて表情の分かる高さだ。笑顔を浮かべたハリーが、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出す。
「やあ、空の旅はどうだい」
「むさくるしいことこの上ないですが、景観は上々ですよ」
ほらみんな手を振って、と促す。それぞれ意図は違えど、楽しそうとはとても思えない事で共通している笑みが、ぐるりと回したカメラに映り込んだ。
おかしそうに肩を揺らした液晶の中のハリーは、けれどカメラが窓へ向けられた途端、そのエメラルドの瞳に一層の輝きを宿す。
遊園地と言えば観覧車だと、最も強硬に主張していただけのことはある。小高い自然公園と隣接しているだけあり、街の南に当たるこの地域は周囲に遮蔽物がない。イーリングの眺望を満喫するには打ってつけだった。頂上へ近付きつつあるゴンドラから見えるのは、市庁舎、この街とハードック市を区切るポルラント川に掛けられたブルーリバー橋、トリファー区やチャイナタウン。
「だから言ったじゃないか、ハーディングじゃなくてこっちにするべきだって」
「悔しいが全面的に賛同しますよ」
こちらは一際美しくなったセントラル駅やシティホールを臨む窓へ、張り付くようにして身を寄せながら、ゴードンは呻いた。
「もう遊園地なんざ何年単位で行ってませんからね。ここがどんな場所であるべきか、すっかり忘れていましたよ」
満足しきった笑みを突き付けるハリーが、インカメラを覗き込むような姿勢を取って10秒。これは画面がフリーズしてるなとヴェラスコが気付いたのは、眼下で消しゴム程の大きさになったハリーが、手にしたスマホを叩いたり、頭上へ翳して振り回したりしているのを認めてからのことだった。
「ここ、冗談抜きで電波状況が悪い」
「地上も余り芳しくないらしい。トリファー建設とに伝えて改善の要請をしたら、オープンまでに間に合うかな……いや、これはベライゾンの管轄か」
「どっちにしろ急がせた方が良さそうだな」
思案顔のエリオットの横で、ゴードンは早速電話をかけ始める。
「何せ後3週間後だ」
ゴードンやエリオットからしてみれば3年半──ハリーの当選を見越し、選挙運動期間中から秘密裏に動いていたプロジェクトだ。何としてでも成就させたいに決まっている、しかも出来るだけ完璧に。
「やっとここまで来たかって感じだな」
「最後の一か月が一番問題を起こしやすいんだよ。フィンチ産業の、あの大惨事を忘れたのかい」
「しかと胸に刻んでおりますとも。でもあの時だって、エル・エリオットは問題を華麗に解決しただろ……おうアリ、遊園地のフリーWi-Fiのことだけどな」
意味深に目配せを飛ばすゴードンと違い、エリオットは相変わらず浮かない顔。窓際に頬杖をついたまま、仕立てのいい灰色のステンカラーコートの中、肩をそびやかす。
「でも今回ばかりは、そうそう汚い手を使う訳にはいかないからね」
「モー、ちょっとガチで顔色が悪いけど」
「平気だ」
ヴェラスコの気遣いを無下にし、モーはあくまでも頑なに首を振る。
「酔ってない、怖いわけでもない。ただ、ここはマッキール・ヒルがよく見える。何となく、落ち着かないんだ」
そんな事を言うものだから、ヴェラスコも相手と同じ方向へ目線を向けてしまった。「本当に、ビビってる訳じゃない」と幾らモーが言ったところで、説得力など全くありはしない。
「ヴェラ、通話音声をミュートにして」
相変わらず不自然なほど反対側の景色ばかり眺めているエリオットに言われ、ヴェラスコは慌ててスマートフォンをタップした。
これで、心ゆくまで重い沈黙へ浸る事が出来る。まるで待ち構えていたかの如く、がたんと大きな振動と共にゴンドラが揺れた。旅路が後半へ突入し始めた頃、まず口を開いたのは、いつのまにか通話を終えていたゴードンだった。
「俺は怖くないぞ」
「だろうね」
「そして、あんたもだろう。エル」
殆ど強要のような勢いだったにも関わらず、流石エル・エリオット。首を横に振る事を臆さない。
「今は怖いよ。見つかっていないからね。いっそ掘り返されて発見された方が、安心できるだろうな」
「ああ、そうだったな。あんたは石橋を杭打ち機でぶっ叩いて、壊れなかったら渡る、壊れたら大喜びで業者を集めて建設し直すタイプだ」
「マリーンでもやっぱり、人が死ぬのは怖い?」
喉の奥に鉄臭いおくびが湧き上がってくるのを感じながら、ヴェラスコは尋ねた。振り返ったモーは優しげな二皮目を、錯乱したかのようにかっ開いている。
「ここは戦場じゃない。俺の故郷だ」
「そう。でもさ、ここ数ヶ月で、僕は……こんな事言ったら、君は怒るかも知れないけれど」
スマートフォンの画面の中、若干煽り気味の間抜けな状態で固まっているハリーの顔へ目を落としながら、ヴェラスコは言った。
「政界っていうのは……例えこんな小さな街でもね。信じられない位汚い。きっと、ある決まった量の汚れが、最初から存在しているんだ。そこから減ることは絶対にない……ハリーが清らかでいる為には、別の誰かが、彼が背負うべき汚れを引き受けなきゃいけないんだよ」
しばらくの間、モーがこちらに視線を突き刺していたことは、顔を上げなくてもまざまざ感じ取れる。やがて、普段から低い声は、慎重に言葉を紡ぐ。
「例えば、1人100ポンドの装備を背負って行軍しなければならないとする。そこから1人負傷したら、彼の分を手分けする必要があるから、携行するのは各自25ポンドずつ増えて、125ポンド……そこまで、大したことじゃない」
「いい例えだね」
すぐさま、驚くほど抑揚の失せたエリオットの声が重ねられる。
「ついでに私達は装備の他、病人も運ばなければならない」
「馬鹿言え、ハリーに傷一つ負わせてたまるか」
振り上げられたゴードンの拳は、勢いが良すぎてその場の誰に当たってもおかしくはなかった。
「お前ら全員、こんなど田舎の市長室付になって給料は下がる、今までの社会的地位は投げ捨てる、それでもハリーに賭けたんだろうが」
「ゴーディ」
「分かってるよ、ヴェラ。俺はハリーの政治家生命を、何が何でも守りきる。これまで培ってきた物が全部無駄だって証明することになるなんて、絶対ごめんだね!」
張り上げられた銅鑼声は外にまで聞こえていたかも知れない。けれど扉が開き、迎えたハリーは呑気な笑顔で「園長がBGMをインストゥメンタルにするか、それとも毎月のトップチャートにするか悩み抜いてる。どちらが良かった?」と来る。音楽なんか掛かっていただろうか。思わず4人は顔を見合わせた。
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