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S.C.

 市長付秘書になって間もないモーの為、エリオットはエクセルでハリーの日報の雛形を作ってやった事がある。1時間単位で管理できるし、頻出する用事は別シートで一覧を作り、コピーアンドペースト出来るようにしておいてやった。  で、それを印刷したものを片手に、首を傾げながら入ってきたあの大男は、3つの頼み事をした。 1.5行目と18行目に入っていた文章を間違って消してしまったので、元データがあるなら再送して欲しい。 2.D行はC行に時刻を入れたら、次の予定までの残り時間が表示される筈だが、変なアルファベットが出てくるようになった、どう言う意味か教えて欲しい。 3.別シートにある「S.C.」とはどう言う意味だろうか。  1と2は入力しないセルにロックをかけ、メール再送する事で解決する。だが最後に関しては、エリオットも素直に自らの非を認めた。 「政界ではよく使う略語なんだ。『シャツ・チェンジ』のこと。実際に着替えをするだけじゃなくて、立て込んだ業務の合間に15分ほどの休憩を挟む時にも使うね」  昔はうっかりスケジュール管理を失敗し、シャツを着替えるどころか次の予定地まで車を信号無視上等で飛ばさなければならない事もあった。けれど今やモーはめきめきと、取り返しのつかない程仕事が出来ない秘書から、おっちょこちょいの秘書と呼べる位にまで進歩している。人間は必要な状況に置かれたら、嫌でも学ぶものなのだ。 「あのクソ鳥め、冗談抜きで捕まえて丸焼きにしてやる!!」  猛然と突入してきたハリーに目を見開いていたら、とんだとばっちり、「何がおかしいんだ、エル!」と癇癪玉が破裂する。 「何事だい」 「見てくれよ、これ! 中庭を歩いていたら、あのゴマ……名前なんか知るか。クソ天然記念物に糞を落とされた!」  確か夏の終わり頃にも同じ場所で同じ目に遭い、同じことを喚いていた気がする。 「モー、アマゾンで野鳥の捕獲器を購入してくれ、経費で落としていいぞ……あいつ、どこに行ったんだ」 「ついさっき、トーニャへ書類を渡しに行ったよ。どこを汚して……酷いな」  一体全体、どうしてこの寒空の下をワイシャツ姿で歩いていたのかは分からない。酷く汗を掻いているようだが、それも冷えつつあるのだろう。裾を引っ張ってエリオットに見せつける時、ハリーは全身を馬のようにぶるりと震わせる。  ネクタイが無傷なのが奇跡、と言っていいのかも知れない。黄緑色をした鳥の糞は、白いワイシャツの上で、左肩から臍の辺りまで真っ直ぐな縦線を描いている。 「参ったな、今から『イーリング・クロニクル』のインタビューなのに」 「替えのシャツは?」  そう口にした時気付く。このシャツはボタンダウン、今朝着ていたものとは別物だ。  相手はゴードンか、ヴェラスコか。成程、と顎を撫でるエリオットが、全てを心得たと理解したのだろう。ハリーは微かに赤面し「持ってない」と呟いた。 「前に君のシャツを借りたらパツパツになったしな。モーは大き過ぎてヴェラは小さ過ぎる。ゴーディは車のトランクに入れてるだろ、さっき出掛けていった」 「着替える前に着ていた方は、そんな取り返しの付かないほど汚れてるのかい」 「駄目だ」  ちらりと走らされた視線の先にあるロッカーへ、それは押し込んであるのだろう。彼は地方都市の一流弁護士らしく、落ち着いた趣味の良さを持っているし、服もちゃんと手入れする。だが射精した後の男は、大抵馬鹿になっているものだ。ハリーも例に漏れず、自らの精液や潤滑剤で汚れた下半身を、シャツやシーツで無造作に拭ってしまう癖があった。 「じゃあ、そっちを洗おう。インタビューはここで1時間後だね? ドライヤーで乾かせば何とか間に合うよ」  脱いで、と促せば、従順にボタンへ手をかける。大きなくしゃみを一つこぼしたものだから、エリオットは自らの上着を脱いで、剥き出しの肩へ羽織らせてやった。  幸運にも旅行用の使い切り洗剤が残っていた、ドライヤーはヴェラスコの机から勝手に拝借する。  寒いから部屋で待っていなよと言ったのだが、ハリーはエリオットの服を身に巻きつけるようにして、4階のトイレまでついてくる。  まずは洗汚れの塊をトイレットペーパーで拭うところから始めた。更にハンドソープを染み込ませたハンカチで、生地の下に当てたウェットティッシュへ移すようにして染みの回りを叩けば、それだけでだいぶ薄くなる。 「ここなら上着を着れば大丈夫さ」  隣でじっと作業を見つめている間、ハリーは無言を貫いていた。やがて、洗面台に屈み込むエリオットの肩に、ことんと頭が押しつけられる。 「エル」 「うん?」 「前にヴェラから言われた。貴方は人から愛されるって事が理解できない性質だって。あの時は馬鹿らしいと思ったけど、今なら分かる」  上着の下、素肌から漂ってくるウッディな芳香。ころころとフレグランスを変える性質のヴェラスコが、最近よく纏っている香りだ。 「僕は、君が優しくしてくれれば優しくしてくれる程、胸が痛くて、辛くなるんだ」  ローファー履きの爪先までじんじん冷える、寒々しいほど静まり返り返ったトイレで、声は虚ろに響く。泣いてはいないのだろうと希望的観測を持てたのは、すり、と頬を押しつけてきたシャツの襟に、熱い雫が染み込まなかったからだ。  優しいなんて買い被りにも程がある。それどころか、彼に嘘をついているようで、気まずさすら覚えた。本当に優しい人間は「泣いていいよ」と言えるのだろう。だが今のエリオットが考えるのは、頼むから良い子にしていてくれ、その一点張り。べそを掻いて目を腫らしたら、インタビューと同時に行われる撮影の際、みっともない顔で写真へ収まることになる。 「なあ、僕は臆病なのかな。それとも冷血漢なのか。でも……」 「君は案外頭でっかちだね。それに、ちょっと物事をシリアスに考え過ぎるよ」  洗面台に浅く溜めた水へ洗剤を溶け込ませ、エリオットは世界一清らかな牧師にでもなったつもりで澄んだ声を作った。 「難しく考える必要なんて無いさ。君は私にキスしたいと考えたり、ファックを望むことも。それにこうして、色々話をしてくれるしね。それが君の親愛表現だと、私は考えるんだ」 「本当に?」 「こんなことで嘘はつかない」  そう口端に乗せた途端、エリオットは自覚した。ハリーは己の中に何かを見出して、甘え、弱さを曝け出す程、心を開いてくれている。きっと今現在、彼と寝ている人間の中でも、自らはかなり特異な位置付けにいるのだろう。  けれど、特別であることと、愛されることは違う。重なる時もあるけれど、本来は違うものだと考えておいた方がいい。  臆病で冷血漢なのは一体どちらだろう。そう自嘲すら出来ない程度には、エリオットも人生で十分な場数を踏んできていた。  それに、例え相手に伝わらないことの何がいけないというのだろう。例えどんな形であれ、己がハリーを愛している、それが重要なのだ。この感情についてとやかく言うことは、ハリーにすら出来はしない。 「そう言えば、さっき怒ってたのは、ゴマフヒメドリに引っ掛けられたせいだけじゃないだろう」 「君は何でもお見通しだなあ」  興奮や張り詰めも少し収まってきたのだろう。情事の後特有の、ぼうっと全てが弛緩した表情が、ようやく全面に出てきた。薄く開かれた唇から溢れる吐息がら熱く柔らかく耳朶を打つ。さながらもっともっとと欲しがり、手を伸ばす子供のいとけなさだった。 「車の中で、ちょっと羽目を外したんだ。帰りに中庭を横切って……2週間前に季節外れで産まれた子猫が、どうなってるか見に行った」 「2週間か、一番可愛い時期だろうな」 「それが、母猫しかいなかった。6匹もいたんだぜ」 「カラスかい」 「ああ。酷過ぎる」  シャツを揉み洗いする為、勤勉に動く手をじっと見下ろすエメラルドの瞳は、こんな時でなければ欲情していたかも知れない。だがエリオットは、緩く耳を噛む幼子じみた仕草の方にばかり神経が集中し、とてもじゃないが。 「やっぱり相性が悪いんだよ。僕といれば、僕が不幸になるだけじゃない。猫やカラス、他の相手ですら、みんなとばっちりを受ける」 「それも運命さ」 「エル・エリオットが運命だなんて」  くすくすと震わせ、一層押しつけられた肩の温度は、何物にも変え難い。今はそれで良いのだ。  気付けば腕時計の針は、取材開始20分前を指している。慌ててドライヤーで乾かし、ハリーは何食わぬ顔でインタビューに応じる。ICレコーダーに向けて──あのおっちょこちょいな秘書は、EACRのラジオ番組向け録音を、テレビ局の取材だと勘違いしていたのだ!

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