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第1章①
「――かもくじら の大集団が東海、近畿地方へ向けて侵入中……ーー
目標は大阪、名古屋、および岐阜、各務原 、四日市と推定。全機、出撃せよーー」
雑音混じりの無線から緊迫した命令が流れてくる。
飛行服に身を包み、三式戦闘機「飛燕」の操縦席に座る鈴木晴伍長は、仲間たちを追って滑走路へ機体を進入させた。ジュラルミン製の翼を持つ燕たちが、一機、また一気と梅雨明けの空へ飛び立っていく。
やがて晴の番が来た。
離陸の瞬間は、着陸と同じくもっとも事故が起こりやすい。
晴は緊張した面持ちで、スロットルを開いた。エンジンの回転数が上がり、風防ガラスの向こうの景色が、飛ぶように後ろへ去っていく。規程の速度に達した時、晴は操縦桿を引いた。
飛燕は無事、地面を蹴って飛び立った。
上空で、晴は先に飛び立った味方機と合流し、編隊飛行にうつった。
しかし、その数は晴を含めても二十機に満たない。陸軍の戦闘機で唯一、液冷式エンジンを積む飛燕は、そのエンジンの複雑な機構ゆえに、故障や不調が絶えない。加えて、今年に入ってから部品不足はひどくなる一方である。一度、動かなくなれば、たとえ整備できる人間がいたとしても、掩体壕の中で錆びていくのを待つばかりだった。
戦況は日に日に悪化の一途をたどり、物資不足はもはやどうしようもないところまできていた。
部品がない。燃料の油が足りない。そもそも、人間の活力の源である食べ物が全然、足りていない。晴のように最前線で戦う戦闘機搭乗員には、まだかろうじて必要な食物が行き渡っている。けれども、地上勤務の整備兵などはひどく痩せこけ、幽鬼と変わらない姿になってきた。
米軍による空襲はいよいよ激しく、地方のそう大きくない都市までB-29が姿を見せるようになった。それを迎撃すべく、晴たちは出撃するのだがーーそのたびに誰かが死ぬのが常だった。
搭乗員になってまだ日が浅い晴は、必死で先行する仲間たちについていく。
余裕がない中で、風防ガラスの向こうへ目をやる。紀伊山脈の連なりの向こうに海が見える。
日差しを受けた海面は、魚のウロコのようにギラギラしていた。どうやら奈良と和歌山の県境あたりにいるようだ。このまま名古屋方面へ向かうのなら、間も無く三重県上空に入るーー。
そんなことを思っていたら、不意にエンジンの爆音が遠ざかり、温かい声が耳の中でよみがえった。
「――息子の友弥は、この前の四月に生まれたばかりなんだ」
自分の子について語る如月の顔は、照れと嬉しさがあい混じっていた。
「今は妻と一緒に、実家のある津市で暮らしている。生まれて一度だけ、顔を見にいくことができた。小っちゃいが、すごく可愛らしいんだーー」
晴はスロットルから手を離し、ツンとなった鼻をつまんだ。
ーー如月大尉は死んでしまった。
奥さんと生後間もない息子は、津市の市街のどこかにいるのだろうが、もう二度と、夫であり父親である男に会うことができない。
晴もまた、如月のあの柔らかい笑顔を見ることは叶わない。
そう思うと、これから戦闘機を駆って米軍機と戦わなければならないというのに、泣きたくなってきた。
きっと今日、撃ち落とされる。運よく生きのびたとしても、次で絶対にやられるーー出撃のたびに、そんな死の恐怖が晴の心につきまとっていた。
それでもなんとかしのげたのは、如月がいてくれたからだ。
戦い終わって飛行場へ戻れば、またあの笑顔を見ることができる。その想いを支えにして、晴はこれまで戦ってこられた。
それなのにーー先に死なれてしまった。
如月の戦死を聞いた瞬間から、晴の胸に決して埋めることのできない穴が開いた。
その穴から、絶望と無力感が溢れ出て、身体を蝕んでいくのを、どうにもできなかった。
自分が身を置く戦場から、今はもう、逃げ出したくて仕方なかった。
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