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第1章②
「B-29の編隊は依然、名古屋方面へ侵入中――」
無線ごしに、地上にいる管制官が刻一刻と戦況を伝えてくる。
晴は右手につけていた飛行手袋を外した。航空服の足のポケットに手を突っ込み、取り出したタバコを口にくわえる。
操縦席は本来、禁煙だ。
だが、決まりを律儀に守っている搭乗員は稀である。晴も守っていない。米軍機に遭遇する前の、気絶しそうなくらいの緊張を和らげるのに、ひどい味でもタバコが必要不可欠だった。
晴は機械的な手つきで、同じポケットからマッチを取り出そうとした。
その手が、急に止まった。
わずかな逡巡の後、晴は反対側のポケットをまさぐった。
探していた物は、すぐに見つかった。
『山吹商店』の掠れた文字が印刷されたマッチ箱ーー如月が亡くなる前日に、晴にくれたあのマッチだった。
今では形見となってしまったマッチ箱を、晴は千人針のお守りように肌身離さず持っていた。
敬愛する如月と晴とを繋ぐ唯一の品だ。もとより、使うつもりはなかった。自分が撃ち落とされる瞬間まで、大事に持っておくつもりだった。
しかしこの時、晴は抗いがたい誘惑に駆られた。
ーー科学的にあり得ない、不思議なことを起こすーー
マッチを擦って、何が起こるのか、どうしても確かめたくなった。
晴は衝動に駆られるまま、すばやく一本取り出して、火をつけた。
ついでに、くわえていたタバコに火をともした。
期待と不安の数秒間。
それが過ぎると、指でつまんでいる棒の方にまで炎がはい上がってきた。指先が焦げる寸前、晴は手を振って火を消した。
結局、何も起こらなかった。
「…どうやら、大尉どのにかつがれたかな」
晴は失望まじりにつぶやき、苦笑いを浮かべたーーまさに、その時だった。
指先ほどの小さな光の球が、燻る煙の中から不意に現れた。
「……ホタルか? 一体、どこから…ーー」
光を点滅させながら、一寸たらずの虫が飛行手袋に止まる。
それに気を取られた直後、タバコの煙の中から、羽音と共に大量の光虫が飛び出してきた。
「うわっ…!!」
晴は思わず、左手を振り回した。タバコが操縦席の床に落ち、どこかへ転がっていく。
その行き先を気にする余裕は、とっくに失われている。
今や、光る虫たちの数は千を超え、晴の身体にまとわりつき、埋め尽くそうとしていた。
晴の悲鳴が、絶叫に変わった。虫たちは飛行眼鏡に張りつき、あちこちの隙間から服の中にまで入ってきた。いかなる死線をくぐってきた人間でも、そう冷静ではいられない状況だ。
まして晴は半人前ですらない、未熟な飛行兵である。
狂乱 が絶頂に達した時、突然、三半規管が失調をきたした。
「まずい」と思う間も無く、晴の視界が暗転した。
ーー身体が地面に落ちた時の「どしん」という衝撃で、晴は我に返った。
「痛ってぇ…」
木の根か何かに腰をぶつけた。晴は痛みをこらえ、それでも身を起こした。
あれほどいた虫たちは、一匹残らず、いなくなっていた。
視界が暗い。
飛行眼鏡をずり上げても、暗さは変わらない。いつの間にか、夜になっていた。
そう。昼から夜になり、高度三千メートルを飛ぶ「飛燕」の操縦席にいたはずの晴は、どことも分からない場所に放り出されていた。
まったくもって、理解も説明も追いつかない状況だった。
ありそうもないことだが――光る虫のせいで、操縦席から空中へ転がり落ちたのなら、五体満足でいられるはずがない。落下傘を使った形跡もなく、縛帯で腰の後ろに留めていたはずの落下傘の袋は、乗機の「飛燕」もろとも消え失せていた。
晴は呆然とあたりを見わたした。
暗くて細かいところまでは分からないが、森か山の中にいるようだ。頭上に木々が生い茂り、目を細めると、わずかに星明かりが確認できた。
そして木々の隙間から、何か白い光がまたたいているのが見えた。
ろうそくの炎に誘導される羽虫のように、晴は光の方へ向かった。木の根や石に何度も足を取られたが、すぐに木々が途切れて、登山道らしい踏み固められた道に出た。
そこから見えた光景に、晴は息を飲んだ。
夜の世界に、何千、何万という光の粒が煌めいていた。
街の明かりだとしても、こんなに凄まじい光のうねりは見たことがなかった。まるで夜空を彩る銀河が、丸ごと落ちてきたみたいだ。灯火管制に慣れた目には一層輝き、まぶしく映った。
「『不思議なことを起こす』って……本当だったんだ」
晴は声に出してつぶやく。ようやく、少しだが思考が働くようになってきた。
ここがどこかは分からない。
けれども、街に明かりがあるなら、少なくとも人が住んでいるのだろう。晴はほどなく、決断した。
ーーとにかく、光をめざして道を下っていこう。
もし困った事態になったとしても、ここに戻ってきたらいい。
少なくとも、何もせず一夜を過ごすよりマシだった。
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