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第1章⑥

 久太郎の住まいは、交番から歩いて十分ほどの距離にあった。 「ここだよ」  久太郎が指差したのは、全部で十戸ほどしかない二階建てのアパートだった。  一階にも二階にも、外の通路部分に煌々と明かりが灯っている。遅い時間であったが、カーテンの隙間から光が漏れる窓も少なくなかった。そのことに、晴は改めて驚いた。ここに来る道中もそうだったが、灯火管制などあってないごとく、街灯が(とも)っていた。  それでいて、となり近所の人間が注意しに来ることもない。  これが伊丹の街なら、まずあり得ない話だ。 ーーなにか変だ。  灯り以外にも、いくつものことに晴は違和感を抱いた。  警官たちの見たことのない制服。久太郎の服装。陸軍の飛行兵である晴のことを、誰も彼も歯牙にもかけない。ここに来る道中、ほとんどの道が舗装されていて、走る車はどれもこれも見たことがない形をしていた。  また、久太郎は普通に大学に通っている。結核持ちや、医学生などを除いて、若い男はほとんど徴兵されているはずなのだが。久太郎はいかにも健康そうで、どうして大学生を続けられているか、晴には皆目見当もつかなかった。 「はあ…」  晴はため息をついた。  警官も久太郎も日本語を話していて、明らかに日本人とわかる姿形をしている。それなのに、まるで全く見知らぬ国に来たような感じだ。  そして、その印象は時間が経つにつれて、強まる一方だった。 「えーと、鍵、鍵…」  一階の真ん中にあるドアの前で、久太郎がカバンをあさる。やがて、カバンに鎖で結えられた鍵を見つけて、それでドアを開けた。  中に入ると、久太郎は当たり前のように電気をつけた。  晴は注意しようとして、やめた。街にこれだけ光があふれているのだ。今さら、ひとつ増えたくらいで、影響があるとは思えなかった。 「どうぞー。入って」 「…失礼します」  晴は脱いだ半長靴を土間にそろえて置き、部屋に上がった。  如月そっくりな男が、どんな生活をしているのかーー少しだけ、好奇心がわいた。  晴はぐるりと部屋を見わたした。広さは八畳といったところか。部屋の隅、コンロらしい台の上に鍋とヤカンがあり、その横に大型の金庫ほどもある白い箱、それに茶碗やコップが入った食器棚が置いてある。少し離れた部屋の中央には、小さめの座卓。  大学に通っているだけあって、本棚には難しそうな本がぎっしり詰まっていた。 「大学で、何を勉強しているんだ?」 「日本の歴史だよ。今は特に、鎌倉時代の仏教に興味を持ってる」  部屋全体を見るに、ものは多いが、きちんと整理は行き届いている。見たかぎり掃除も。  酔って路上で寝てしまうような男なので、間が抜けているかと思っていたが、意外と几帳面らしい。  久太郎は座卓のそばに肩かけカバンを置くと、窓ぎわに置かれたベッドを示した。 「布団、ひとつしかないから。鈴木くん、ベッド使って」 「いや、それは困る」  如月を床に寝かせて、自分が布団を使うなど晴には考えられなかった。  如月そっくりな男でも然り。 「俺は、床で寝るよ」 「えー。お客さんに、それは悪いよ」 「床でいいって」 「…分かった。じゃあ、こうしよう」  強情に言い張る晴に、久太郎はひとつの提案をした。 「鈴木くん、どう? 寝られそう?」 「……多分」  晴はそう言ったものの、自信はなかった。  なにせ、三十センチと離れていないところに、如月久弥にうり二つの男がいるのだ。  それも、たくましい手足や胸元を露出させて。  気がたかぶって、すぐに寝られそうになどなかった。  結局、久太郎の提案で、床の上に敷き布団とさらに春や秋に使っているという掛け布団を並べて、その上で寝ることになった。  夏に使っているという、薄いタオル地の掛け布団も、横にして共用している。まるで小さい頃に、兄弟姉妹と一緒に寝た時にようだと晴は思った。  脱いだ飛行服と軍服の上着は畳んで枕元に置いた。護身用の拳銃は、久太郎がいじったら危ないと思って、こっそり靴箱の下に隠した。  壁の上部に設置された機械(「エアコン」と久太郎は呼んでいた)から、涼風が送り込まれ、室内を冷やしている。晴はその音を聞きながら、天井を眺めていた。  しかし、すぐに久太郎のことが気になり出した。  寝返りを打つふりをして、隣に寝そべる男の方へ顔を向ける。  すると向こうもこっちを見ていて、まともに目があった。  窓から差し込む街灯の青白い光の中で、久太郎はうっすらほほえんでいた。 「鈴木くん。そういえば下の名前、なんて言うの?」 「…(はる)だよ。晴れ、くもり、雨の内の『晴』の字で、はるって読む」  晴は、自分の名前があまり好きではない。勇壮さとは無縁で、逆に女でも通用しそうな名だからだ。物心ついて以来、同じ年頃の者にかわれるのが常だった。  しかし、久太郎は当たり前のように、「いい名前だ」と言った。 「きっと、つけてくれたご両親は、晴れやかで、明るい人間になって欲しくて、その名前にしたんだろうね」 「……かもしれない」 「鈴木くん。君のこと、晴くんって呼んでいい?」  久太郎は相手の返事も待たずに言った。 「晴くん。ふふ、おやすみ」  久太郎が目を閉じる。ほどなく、その口から安らかな寝息がもれはじめた。  その隣で、晴は布団に顔を押しつけて身もだえた。  如月と同じ顔と声で、そんな風に呼ばれて、冷静でいろという方が無理だった。  

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