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第1章⑦

 悶絶すること十数分。晴は小用をたしたくなって、布団から起き上がった。  便所と風呂が、部屋の一角にしつらえられていると久太郎から聞かされた時、晴はかなり驚いた。しかも便所は水洗式で、風呂は機械の電源を入れれば一分足らずでお湯が出るという。   汲み取り式便所と共同風呂に慣れた晴にとっては、贅沢なことこの上ない。  しかし、それは別に珍しくもないと、久太郎は言っていた。  逆に久太郎の方も、晴に便所の使い方を聞かれて、面食らっていた。だが、親切に使用法を教えてくれた。おかげで、大して困らずに晴は用を済ますことができた。  やれやれ、と便所から布団へ戻ろうとした時である。  壁に掛けられた紙の束に、晴は気づいた。  部屋に入る時、見落としていたそれは、めくり暦(日めくりカレンダー)だった。  その日付を見て、晴は目を疑った。  瞬きして、もう一度、じっくり眺める。けれども、見間違いではない。  晴が出撃した日は、六月二十六日だった。  けれども、暦の日付は七月二十四日。一ヶ月近く先だ。  その上に小さく印刷された西暦年を見て、晴は足元が崩れるような感覚に襲われた。 ――202X年(令和X年)――    晴はようやく、すべてに合点がいった。  久太郎たちの奇妙な服装も。違和感だらけの外や部屋の様子も。空襲など、恐れもしていないように光に溢れた街も。  如月久弥が言っていた「不思議なこと」は、ホタルに襲われたり、数千メートルの高度から無傷で地上に移動するだけのことではなかった。むしろ、それは副次的なものに過ぎなかった。  晴は一九四五年六月から、約八十年後の未来に来ていた。  …スマホが枕元で震えている。  鳴り方からして、誰かがメッセージを連続で送信しているらしい。久太郎は寝ぼけ眼をこすって、待ち受け画面を確認した。 〈平田:君、つつがなく家で寝ただろうね?〉 「…ちゃんと寝たよ」  そうつぶやいて、久太郎は再び目を閉じた。頭が少々――いや、かなり重くて痛い。典型的な二日酔いの症状だ。  頭痛に耐えながら、久太郎は昨晩のことを少しずつ思い出した。  ゼミ仲間が開いた飲み会は、夕方六時半ごろに始まった。二次会を経て終わったのが十時過ぎ……くらいだったはずだ。終わる頃の記憶が曖昧なのは、許容範囲を超えた飲酒のせいだ。  それから?――うん。記憶が、ところどころ飛んでいる。  たとえば、どうして交番に立ち寄ることになったのか、久太郎には全く心当たりがなかった。なじみのある京都の街中で、道に迷うとは思えないのだが。  しかし、立ち寄ったその交番で、軍服(?)のコスプレをした大層、魅力的な男子と出会い、一緒に下宿に帰ってきたことは、しっかり覚えていた。  名前は鈴木晴。  酒による幻影でない証拠に、その人物は久太郎の隣で、仰向けに寝ていた。 「――やっぱりかわいいな、この子」  晴の寝顔を眺め、久太郎は頭をかいた。  今になって、若干の後ろめたさを覚えた。  終電を逃した晴を泊めたのは、もとより親切心からだ。しかし、そこに一片の下心もなかったかと言えば嘘になる。 晴を見て、最初に連想したのは阿修羅像だった。奈良の興福寺にある、あの仏像。小学生の時、憂いを帯びた清純な佇まいを初めて目にしたのだが、血が通っていないことが信じられないくらいだった。  興福寺に連れて行ってくれたのは祖父だ。  久太郎が自分の抱いだ印象を伝えると、祖父は目尻に皺を刻んで教えてくれた。 「久太郎みたいに、仏さまに見惚れる人は昔からいたんだよ。与謝野晶子だって、歌の中で言っている。『釈迦牟尼は、美男におわす』とな」  阿修羅像には、天女のような柔和さと戦神の荒々しさが混ざり合って共存していた。  晴も、少し似ている。  まつ毛の長い綺麗な目を持ち、顔全体の輪郭線も細く、少年の名残をとどめている。それなのに、重たげな軍服―もちろん、よくできたレプリカだろうが―を、ごく自然に着こなしていた。  そして、相反する性質を持つその姿に、久太郎はどうしようもなく目を奪われた。  今も、晴の寝顔を前に顔が緩みっぱなしだ。  二日酔いの頭痛ですら、一時的に忘れられるくらいだった。 「晴くんみたいな印象的な子。一度会ったら絶対に忘れないんだけど、どこで会ったかな…」  久太郎は思い出そうとしたものの、頭が余計に痛み出しただけだった。眉をしかめ、考えるのを中断する。まずは何を置いても、必要なのは水分補給だ。  時計を見ると、八時を回っていた。朝食を作るのに、ふさわしい時間だった。  久太郎自身はあまり食欲がないが、晴は多分、食べてくれるだろう。  久太郎はのそのそと寝床からはい出して、鍋とヤカンを放置したままのコンロへ向かった。

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