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第1章⑧

 ヤカンで湯がわく音。そこに、何かを炒める音が混じる。しばらくすると、食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。  寝床から起きて出してきた晴に気づいて、久太郎はにっこり笑った。 「おはよう。朝ごはん作ってるところだけど、食べるよね?」  それを聞いた晴は、なぜか固い表情で久太郎を凝視する。  数秒の沈黙の後、「…もらう。ありがとう」とかすれ気味の声で返事をした。 「パンとごはん、両方あるけど、どっちがいい?」 「…じゃあ、パン」 「コーヒーは?」 「飲む――あのさ。灰皿、借りられるか?」 「あー…悪いけど、アパートの敷地内、全面禁煙なんだ。火災報知器もあるから、タバコは吸わないで」 「…分かったよ」 「そこのテーブルで待ってて。すぐにできるから」  久太郎は晴を座らせると、手際よく残りの調理を済ませた。と言っても、冷凍庫の食パンをトースターで焼き、目玉焼きとベーコンを皿に盛って、それからレタスをちぎってドレッシングをかけただけのサラダと一緒に、並べるだけだが。  最後に、コーヒーの入ったマグカップを二つ並べて完成だ。 「どうぞ。口に合えばいいけど」 「いただきます」  晴は礼儀正しく言って、箸をとった。 「うん、うまい」  晴は一度、そう言っただけで、あとは黙々と朝食を口にしていった。  結局、コーヒーだけにした久太郎は、その様子に内心、首を傾げた。明らかに元気がない。よく見ると、目の下にうっすら(くま)が浮いている。 ーーひょっとして。他人の家の布団だったから、あまりよく休めなかったのかも。  コーヒーを飲みこみながら、久太郎はそんなことを思った。  食事中にも、スマホが何度か震えて、メッセージの着信を告げた。  しかし、久太郎は晴が帰った後にまとめて返信しようと思って、放っておいた。  やがて食べ終わって、あとはコーヒーが少し残るばかりとなった時、晴が意外なことを聞いてきた。 「あのさ。日本は、戦争に負けたんだよな」 「…? 戦争って、太平洋戦争のこと?」 「うん。そういう名前で、呼ばれてるやつ……悪い。実は、そっちが寝ている間に、本棚にあった本を勝手に読ませてもらった」 「え…?」 「すまん」 「いや。別にかまわないけど…」  そう言いながらも、久太郎は目を泳がせた。  晴に見られて、気まずい思いをするようなものを、うっかり置いていなかったか?   たとえば、裸の男性ばかり並んだ写真集とかーーいや、多分、大丈夫だ。時々、平田や他の友人が来ることもあるので、見えないところに隠している。  久太郎は心を落ち着かせて、晴に向き直る。  まだ、軍人になりきる振る舞いを続けるつもりだろうか? 「――うん。まあ、晴くんも知っての通り、日本は負けたよ。アメリカや、他の連合国に。一九四五年八月のことだ」 「そのあと、日本はどうなったんだ?」 「連合国軍に占領された。実質的には、アメリカのマッカーサー元帥に率いられたGHQが、占領統治をおこなった。そのあと、一九五二年にサンフランシスコ平和条約が発効して日本はやっと独立を回復したんだ」 「七年も、アメリカに支配されてたのか」 「占領を『支配』と言ってしまうのは、語弊があるけど…日本が七年間、独立を失っていたのは事実だよ」 「そうか…そっか…ーー本に書いてあったのは、全部、本当のことだったんだな」  久太郎が驚いたことに、晴はうつむくと、そのまま嗚咽を漏らして泣き出した。 「は、晴くん…?」  晴は、本当に感極まって涙が止まらないようだった。肩を震わして泣く姿に、久太郎はたまらず、背中をさすってやった。手を払いのけられるかとも思ったが、晴はされるがままだった。  五分以上経って、やっと高ぶった気持ちも静まってきたようだ。 「…コーヒーのおかわり、いるかい?」  久太郎が聞くと、晴は黙って頷いた。席を立った久太郎が、淹れ直したコーヒー片手に戻ってきた時には、晴は大分、落ち着きを取り戻していた。 「――本当に、昔の人みたいだね」  久太郎は冗談のつもりで言った。 「日本が負けたって、聞いた時の晴くんの反応。写真とかで見た、玉音放送を聞いた時の日本人にそっくりだ」  晴は赤く腫れた両目を、久太郎に向ける。  どちらかといえばひどい顔だ。にも関わらず、その眼差しを向けられた久太郎は、心臓の鼓動が早まるのを感じた。   「ーー昨日と同じ質問の繰り返しになるが。如月久弥(きさらぎひさや)という名前の陸軍大尉に、本当に聞き覚えはないか」  晴のその問いに、久太郎は戸惑った。  昨日は酔っていて、まともにものを考えられなかったが――晴が口にした名前に、今は心当たりがあった。  沈黙する久太郎に、晴はすがるように言葉を重ねた。 「なら、友弥(ともや)は? 一九四五年に生まれた如月友弥という人には――」 「…ちょっと待って」  久太郎は思わず口をはさんだ。 「なんで、晴くんが俺のじいちゃんの名前を知ってるの? じいちゃんと知り合い?」 「…会ったことはない。だけど、知っている。如月大尉どのから、友弥という息子が生まれたって、聞かされてたから」  困惑する久太郎に、晴は意を決した顔で告げた。 「俺が本当に昔の――八十年前の日本人だって言ったら、信じる?」

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