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第1章⑩

「――携帯に出られたということは。どうやら生存していたようだね、久太郎君」  猫に似た、どこか気だるげさが漂う声で平田は言った。 「既読がつかず、心配になって二十回以上メッセージを送った自分が、今になって少々、恥ずかしくなってきたよ」 「ご、ごめん。平田さん…」  久太郎は即、謝った。 「メッセージには気づいていたんだ。後で、返信しようと思って…」 「まあ、かまわないよ。無事は確認できたから」  本物の猫のように、平田はのどをゴロゴロと鳴らす。  どういう仕組みでそんな音が出るのか、本人以外は誰も知らない。 「ところで、今日の予定はちゃんと空けておいてくれているだろうね」 「え……?」 「おいおい。三条高倉の博物館で、戦前・戦後の京都の写真を集めた展覧会をやっているから。一緒に観に行こうって、先週、約束しただろう」 「…ああ」 「さては忘れてたな、君」  久太郎はきちんと覚えていた。少なくとも、今朝起きて、朝食を食べていた間までは。  その後、晴の語った話のせいで、一時的に頭から消し飛んでいただけだ。 「行けそうかい? 君の最大の欠点は、酒を飲み始めると適当なところで歯止めがきかなくなるところだが…昨夜、調子にのって飲みすぎて、二日酔いが抜けていないというのなら、また日を改めてもいい」 「体調は大丈夫だよ。ただ、ちょっと…」  久太郎は、晴を見やる。八十年前からやって来たと主張する青年は、久太郎がスマホで話す様子を、興味津々という態で見ていた。  今は都合が悪い、と言いかけて、久太郎はあることを思いついた。 「平田さん、確か日本の旧軍に詳しかったよね」 「なんだい、その唐突な確認は? まあ、君と比べるなら多少、知識はあると言えるよ」  聞く者によっては、気分を害しかねない言い草だった。  しかし、久太郎は別に腹も立てない。生まれつきのおおらかさーーというより自尊心を保つことに全く汲々としない久太郎の鈍さが、平田と友人関係を維持できている大きな要因だった。  晴と二、三言交わし、許可を得た上で、久太郎は平田に告げた。 「今、俺の部屋に、昔の日本軍の格好した子が来てるんだ」 「ほう、連れ込んだのか。やるな、久太郎君」 「神仏に誓って、君が今、想像しているようなことはしていない」  久太郎はピシャリと否定した。 「その子、鈴木晴くんっていうんだけどね。陸軍の軍人だった俺のひいじいさんの部下で、八十年前からタイムスリップしてきたって言ってるんだ。もしよかったら、一緒に話を聞いてくれないか?」  何秒かの沈黙。 「平田さん?」 「なんだい、その面白そうな状況は」  平田の声は猫がネズミを――否、ライオンがシマウマを見つけたように、弾んでいた。  舌なめずりする姿まで、久太郎には見えそうだった。   …平田が来た時、久太郎は晴に向かってスマートフォンの仕組みや使い方を説明しているところだった。  久太郎の語る話に、晴はしきりに感心していた。 「こんな小さな機械で、時計も電灯も、電話も使えるなんてすごいな。しかも何か調べたい時、すぐに百科事典くらいの量の情報が手に入るのは、ものすごく便利だ」  興奮する晴の姿に、久太郎はホッとしていた。先ほど日本が戦争に負けたと聞いて、しょげかえっていたが、大分、元気を取り戻したようだ。 「この、『画面』だっけ。他にも、小さい四角がたくさん並んでるな」 「うん。色んなアプリが入ってて、音楽を聞いたり、物を買った時にお金と同じように支払いに使えるよ」 「へーっ……アプリって、なんだ? フランス語か何かか?」 ――本当に、昔の人みたい……ひょっとして、本当に八十年前の人間なのかな。  久太郎は、そんなことを思っては否定するのを、繰り返していた。  晴の話は、どう考えてもあり得ない。しかし、目の前で目を輝かせて、スマホをいじり、あれこれ久太郎に聞いてくる姿は、到底ウソをついている人間には見えなかった。  久太郎がさらに説明しようとした時、ピンポーンと玄関チャイムが鳴った。 「ーーおはよう、久太郎君。外は朝から、地獄だよ。まったく、京都は歴史あるすばらしい街だが、住むのには最悪だね。夏は酷暑、冬は底冷え。かつての平安人はどうして、こんなところを首都にしたのか、理解に苦しむよ」  文句を並べながら現れた人物は、久太郎の背後をのぞき込んで莞爾と笑った。 「やあ、君が鈴木晴君だね。初めまして、平田呉葉(ひらた くれは)だ。お見知りおき願う」  平田の姿を見て、晴はポカンと口を開けた。  「どうしたんだい。鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」 「…あー。あんた、女だよな」 「いかにも、そうだよ」  平田は薄く口紅を塗った唇をつり上げて、ニヤッと笑った。  平田呉葉は久太郎より二十五センチは、そして晴よりも十センチほど背が低い、小柄な女性だった。 「おおかた久太郎君の同級生と聞いて、男だと思っていたんだろう。なるほど、典型的な昭和人の発想だ」  細い首を傾け、平田は言った。 「日本は世界的に見ても、男女の社会的、経済的格差がまだまだ大きい国ではあるが。それでも女性に参政権はあるし、医師や大学教授のような高等専門職についている者も多い。なんなら、自衛官――鈴木君の時代で言うところの『兵隊』に入る女だっているよ」  驚く晴の顔に、平田はぶしつけな視線を浴びせる。 「…ふん。ごく自然な驚愕の反応だ。本当に、タイムスリップして来たという話を信じそうになるな」 「平田さん…」  久太郎が、とがめる目つきになる。けれども、平田はまったく意に介さなかった。 「君は人を簡単に信用しすぎるきらいがあるからな、久太郎君――でも、私は違うよ」  平田が色の薄い瞳をすがめる。  まるで猫のように、瞳孔まで細くなったごとき錯覚を、見るものに与えた。 「鈴木君。君が本当に八十年前の人間かどうか確かめるために、いくつか質問したり、調べさせてもらってもいいか?」 

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