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第2章③

「老婆心ながら、ひと言注意喚起しておくべきだと思ってね。まだ昼間だけど、かけさせてもらったよ、久太郎君」 「……なんだい?」  いい空気をぶち壊しにされたせいで、さすがに久太郎の声も、常日頃の愛想を欠いていた。  もちろん、そんなことを気にする平田ではない。  店の外で電話に出た久太郎に向かって、一方的に自分の考えをまくしたてる。 「今日中に、鈴木君にワクチン接種をさせた方がいい。彼は八十年前の人間だ。当然、ここ数年に流行した新型ウイルスに対して、免疫なんて持ってないだろう」 「ああ。確かに…」  久太郎はガラス越しに店内の晴を見る。気づいた晴は軽くうなずき、また食事に戻った。 「せっかく戦争で殺されずに済んだのに、病気で死ぬのは、もったいないからね」 「…平田さんは、晴くんが一九四五年に戻らないと、思うのかい?」 「もちろんだ」平田は即答した。 「もし、小説や映画に出てくるタイムマシンみたいに、戻る時間や場所を自由に選べるのなら、その選択肢もアリだろう。だが、彼がこちらに来るきっかけになったアイテムは、ただのマッチだ。機械の類なら、百万遍通りか、さもなくば宇治の自衛隊駐屯地横をほっつき歩いている大学院生あたりをとっ捕まえて、根本的な原理を解明してもらうという、いかにも映画的な展開が期待できたかもしれない。だが、見た目が本当にただのマッチでは、彼らとてお手上げだろう?   ホタルの大群に包まれて時空を越えるなんて、SFじゃなくファンタジーか伝奇小説の世界だ。君のひいおじいさんが言っていた『元に戻る』というのは、言葉通り、マッチを擦った時間と場所へ使用者を戻すものと、考えた方がいい。鈴木君の場合、それは戦闘機と爆撃機が飛び交う戦場のただ中だ。そこで死ぬかもしれないと分かっていて、戻る人間はいないだろう? いたとしたら、とんだ大馬鹿者だ」 「でも晴くんは、帰りたいとも思っている。家族や友だちはみんな、八十年前にいるんだ。戻りたいと思うのも、ごく自然な気持ちだよ」 「だったら、全力で止めるべきだな」  平田は、にべもなく言った。 「帰るのは、文字通り自殺行為だ。さっき確認したが、例の丸山大尉の回想録は戦後二十年ほど経て、出版されている。少なくとも、鈴木晴伍長が一九四五年六月二十六日をもって、存在しなくなったのは間違いないんだ。鈴木君は幸い、この時代に飛ばされたことでまだ生きている。けれど、もし戻って死なれたら……さすがに、君も私も後味が悪いだろう?」 「…そうだね」   久太郎はそれだけ言って、額に浮かんできた汗をぬぐった。  いい加減、暑くなってきた。  それに、晴をあまり長い時間、店内に一人で放置しておきたくなかった。 「そろそろ中に戻るよ、平田さん。ワクチンの件、気づいてくれてありがとう」  礼を言って、久太郎は電話を切った。  そして、今度こそ音量と着信音を元々のものに設定し直した。  久太郎が店に戻ると、すでに晴は食べ終えて、アイスコーヒーを啜っていた。  戻ってきた久太郎に、晴は尋ねた。 「なあ、あそこのガラス張りの小部屋。中でタバコが喫えるんだよな?」 「え? ああ、喫煙室だからね」 「タバコ喫いたいから、行ってくる」 「…ちょっと待って、晴くん。確か大正十五(西暦1926)年十一月生まれって、言ってたよね」 「ああ。そうだけど」 「昔のことは、よく知らないけど。今の日本は、タバコを喫える年齢が法律で決まっている。二十歳未満はダメだよ。ついでに、お酒も」 「……その法律、八十年後もあるのかよ」 「八十年前からあったんなら、きちんと守らないとダメだよ!」 「いや。俺はもう二十歳だ。だから、大丈夫だ」 「、二十歳でしょうが。ごまかしても、騙されないよ。昭和二十(西暦1945)年六月の時点で、満年齢はまだ十八歳七ヶ月だろう。ダメなものはダメ。タバコ、俺に預けて」 「なんだよ、それ!?」 「俺の家で寝泊まりするなら。法律は守ってくれないと、困るよ。警察に捕まるのは、ごめんだよ」  久太郎の言い分に、晴はむくれた。  しかし、しぶしぶながらもタバコを差し出した。世話になる相手を、警察の厄介にさせるわけにはいかない。  そこでふと、晴は昨夜の一幕を思い出した。 「久太郎。お前、昨日、酔っ払って路上で寝て、警官に発見されて駐在所に連れ込まれてたが、年いくつだ?」 「二十一だけど……って、俺、昨日の晩、そんなことになってたの?」 「なっていたぞ。久太郎…さん」 「今さら無理して、さん付けしなくていいよ」  久太郎が苦笑する。  晴は迷ったものの、結局「久太郎」のまま、呼ぶことにした。

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