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第2章④

 久太郎はパスタを食べ終えると、今日中にワクチンが打てる医療機関をスマホで探した。 「あ、ここいいんじゃないかな。近所のバス停から乗れば、一本で行ける」 「まかすよ」  晴は言った。注射は好きではないが、仕方がない。  こんなに科学が進んでいるのに、病気が世界中で蔓延し、何百万人も死者が出たというから、驚きだ。もっとも、晴が生まれる前だって、スペイン風邪という病気が流行って、大勢の人間が死んだと聞いている。  久太郎に予約を取ってもらった後、一度、下宿へ戻ることにした。  喫茶店を出て、バス停へ向かう道中、晴は通りかかった神社に目をとめた。 「この神社。暑いのに、けっこう人がいるな。祭りか?」 「ああ。割と有名な神社だから、観光客がよく来るんだ。よかったら、寄ってく?」  久太郎に勧められ、晴は境内に足を運んだ。  鳥居から社殿で続く道は、木で覆われて薄暗く、羽虫が飛んでいた。いつもより、晴は虫の存在が気になった。昨日、ホタルの大群に襲われたことが、嫌な記憶として甦ってくる。 「ここ、通称『うさぎ神社』っていうんだ」  久太郎の声を聞くと、晴は少し気分が和らいだ。 「祭られているのは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)奇稲田姫(クシナダヒメ)。その神様の使いが、変わってて…」 「あの石像。狛犬じゃなくて、ウサギだよな?」 「うん。使いのウサギの像が、あちこちに置かれている。だから、『ウサギ神社』って呼ばれているんだ」  晴は、神社の入り口にある石でできたウサギの頭と耳を撫でる。ひんやりした感触が指先に伝わる。自然と顔がほころんだ。 「かわいらしいな」 「晴くん、こういうの好き?」 「まさか」  晴は首を振った。 「妹がウサギ、好きなんだ。小物とか、それを入れる袋とか、よくウサギの模様が入ったものを好んで持ってる…持っていた」  晴は寂しげに笑った。 「俺と五つ違いだ。でも、もうこの世界じゃ、生きていないだろうな」 「妹さんは、どこに住んでいるんだい?」 「故郷の壱ノ日島だ。そこで両親と一緒に暮らしていた。俺は上に兄が二人と姉が一人いて、下にいるのは妹の明子(あきこ)だけだ。兄貴二人は海軍に入って、姉の昌子(まさこ)は嫁いで広島に行った」 「…そう」  久太郎は軽く相槌を打ったものの、それ以上、聞くことができなかった。  一九四五年八月六日。  原爆が投下された日に、晴の姉が広島市内にいたとすれば、その日の内に亡くなっているかもしれない。 「――晴くん。ふるさとの島に、一度、行ってみないかい?」 「え…」 「もしかしたら、妹さんがまだそこに住んでいるかもしれないよ。晴くんのいた時代より、日本人の寿命は大幅に伸びたんだ。特に女性は、九十代なら生存している可能性は十分にある」  久太郎の言葉が、晴の頭にしみこむまで少しかかった。  八十年という歳月を経て、自分の妹がまだ生きているとは、全く思っていなかった。 「オンボロだけど、俺一応、バイク持ってるんだ」  久太郎は言った。 「去年もそれで、しまなみ海道を越えて四国まで行った。だから晴くんの故郷だって、きっと行けるよ」 「…考えてみる」  晴はそれだけ言って、本殿へ続く石階段へ足を向けた。  本殿前にも観光客がいた。ほとんどが若い女性で、日傘を差して日焼けするのを防いでいる。  男二人で来ているのは、晴と久太郎だけのようだ。  暑さを我慢しながら、晴は久太郎と共に、参拝の順番を待った。その間に、ポケットから自分の財布を取り出す。 「賽銭くらいは出す」  晴から手わたされた貨幣を見て、久太郎は五十円玉かと一瞬、思う。  しかし、よく見ると、「五銭」とあった。 「…昔のお金。初めて見たよ」  久太郎は五銭硬貨を、ためつすがめつ眺めた。 「神様が相手なら、八十年前の金でも問題ないだろう」 「そうだね」  久太郎は笑った。  思いがけず、晴の考え方に面白みを感じた。

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