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第2章⑥

 翌朝、目覚ましが鳴るより前に、久太郎は目を覚ました。  早朝から、すでにうだるような蒸し暑さだった。扇風機が空々しく首を振って、生ぬるい空気をかき回している。寝冷えするからと言い訳をして、エアコンの使用を控えてきたが、さすがにそろそろ、つけた方がいいかもしれない。  久太郎の隣で眠る晴も、かなり汗をかいていた。腕をあごの下にして、うつ伏せに近い姿勢で寝息を立てている。寝る前にかぶったタオルケットは、とっくの昔に蹴り飛ばされて、あさっての方向に落ち、昨日、買ったばかりのTシャツも胸のあたりまではだけて、腹や背中が丸見えだった。  なめらかな肌に、うっすら汗の玉が浮いている。背中から腰にかけての輪郭には、羽化したばかりの蝶に似た、なまめかしさが漂っていた。  無防備きわまりない晴の姿を眺める内に、久太郎は自分の股間が疼いてくるのを感じた。 ――…まずいな、これ。  どうにかすべきだ。  そうと分かっていても、晴の汗ばんだ肌からどうしても目が離せなかった。  久太郎は息を殺して、そっと手を伸ばした。はだけたシャツを直すフリをして、腰のあたりを指でなぞる。 「う…ん…」  晴の唇から、鼻にかかった声がこぼれ落ちる。  それを聞いて、久太郎のこめかみのあたりでカッと血が沸いた。股間のものはもう、完全に勃起していた。  その時、幸か不幸か、晴がうっすら目を開けた。  そして、ひと言、 「…だるい」とつぶやいた。  久太郎は慌てて、晴の額に手をやった。熱があるのを確認すると、すぐに体温計を取りに行った。 「スポーツ飲料と麦茶。あと、念のために昨日、買った解熱剤を一緒にお盆に載せて、ここに置いておくね」 「あー…」 「…多分、昼までには帰って来られると思うけど、本当に俺、出かけて大丈夫?」 「大丈夫、だいじょーぶ……寝とくから。行ってくれ」  水揚げされたチヌ(黒鯛)のごとく、布団の上に寝転がったまま、晴はうめき混じりに答えた。  久太郎が出かけていった後、晴は寝返りを打って、ため息を吐いた。  注射を打ったら、かなりの確率で筋肉痛や発熱の症状が出る。あらかじめ久太郎に言われていた通りになった。予告されていて、一応、心がまえはできていたが、それで苦痛が減退するものでもない。おとなしく眠って、やり過ごすしかなさそうだった。  ワクチンの副作用に苦しむ晴を、久太郎は献身的に看病してくれた。  晴が汗をかいた衣服を着替えるのを手伝い、お粥を作り、布団のシーツまでわざわざ新しいものにかえてくれた。  こんなに至れりつくせりの扱いは、小学生の頃、母親に看病されて以来のことだ。  久太郎は今、バイクに乗って布団を取りに行っている。  スマホの「アプリ」に、不要になったものを売買できる機能のものがあって、昨日、すでにそれを使って市内の人間から、中古の布団を譲ってもらえる約束を取りつけていた。 「布団が手に入ったら、別々に寝よう。その方が、晴くんも寝やすいだろうから」  久太郎の提案に、晴は反対しなかった。ざこ寝している今の状態に、取り立てて不満はない。しかし、身体の大きい久太郎のことだ。きっと、窮屈な思いをさせていたのだろう。  しんどさを抱えて微睡みながら、晴は改めて久太郎のことを考えた。  如月久太郎という男は、とにかく親切だ。  時におせっかいと思えるくらいに、晴のことを気づかっている。  その優しさは、晴が心に抱く孤独や不安を、何度も和らげてくれた。  もう、この時点で感謝してもしきれない。  だからこそ、いつまでも甘えてはいけないと思った。  なるべく早く。どんなに遅くとも、久太郎の夏休みが終わる九月までに、晴は自分の身の振り方を決めなければならない。  死ぬ危険を冒して、過去に戻るか。  それとも、このまま八十年後の世界にとどまり続けるか。  どちらも全くそそられない選択肢だ。それでも、いずれは決断を下さなければならなかった。  それから、晴はこれからのことも考えた。  昨日、病院から戻った後、久太郎は父親からのお下がりだという「パソコン」を広げて、何やら調べものを始めた。 「晴くんの故郷。壱ノ日(いちのひ)島って、ここかな?」  久太郎が示した画面に、瀬戸内海の地図が映し出されていた。  地名も表示されていたが、たとえそれがなくても、晴はすぐに自分の住んでいた島を指させただろう。なんの特徴もない、近隣と比べても小さい島だ。しかし、そこはまぎれもなく晴の生まれ故郷だった。  晴の顔に浮かんだ郷愁に、久太郎はすぐに気づいたようだ。 「…行ってみる?」  二度目となる問いかけに、晴は今度は素直に頷いた。 「行ってみたい」  父や母はもう、この世にいないだろう。  けれども長兄の昭一(しょういち)が、家を継いで、その子どもが住んでいるかもしれない。あるいは、久太郎が言ったように、妹の明子が島の誰かのところに嫁いで、今も存命しているかもしれない。  何より、身の内から湧き上がった強い衝動が、晴を突き動かした。 ーー家に帰りたい。  叶うのなら、もう一度、自分のうちへ帰りたかった。

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