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第2章⑦

久太郎は無事、布団を入手した後、一軒だけ寄り道をした。  バイクを停めたその店は、京都の三条という市中の真ん中にありながら、昭和の雑然とした空気をそのまま残していた。  今どき流行りのリメイクされた「レトロ」な趣とは、無縁である。  一歩、店内に足を踏み入れると、機械油とゴムのきつい匂いが鼻をつく。店の一角にあってカタログや台帳を載せた机は、多分、五十年以上前に買われたものだ。その上に置かれた灰皿は、二、三日分の吸い殻でいっぱいだ。  日焼けした壁には、半世紀前から一番新しくても平成一桁くらいまでのポスターが貼られている。全てバイクか、その関連用品だ。  そう、ここはバイク屋だった。一番奥が中庭になっていて、そこにさまざまなメーカーの中古の単車が並んでいる。他にも、ヘルメットや修理に必要な諸々の道具も扱っていた。 「こんにちは。福家(ふけ)さん、いますかー?」  久太郎が呼びかけると、奥でガラス戸が開く音がした。高校野球を中継している音声が、かすかに聞こえてくる。  それから、髪が一本もない見事なハゲ頭がガラス戸からのぞいた。 「おーう。久太郎か」  店と同じくらいに年を食っている老人が、この店の店主、福家だった。  上はくたびれたシャツ、下は短パン、手にはタバコという姿で、福家は今日初めて来店した客を出迎えた。 「大学の授業は? もう、しまいか?」 「はい。あと、レポートが少し残ってるくらいです」 「夏休みか。いいねぇ。学生の内に、遊んどけよ。社会人になった途端に、遊ぶ時間なんてなくなるから」   福家はパチンコ屋の広告が印刷された団扇で、バタバタと首をあおいだ。 「で、今日のどうした? コツコツ貯めたバイト代、ついに購入資金に届いたか」 「そのことなんですけど…」  久太郎は申し訳なさそうに、切り出した。 「バイクを買う話。いったん、延期にしてもらえませんか」 「は? そりゃ、またどうして」 「貯めたお金を、別のことに使おうと思って。急で、本当にすみません」 「いや、謝ることでもねえが…意外だな。あんなに頑張って貯めて、もうあと少しって言ってたろう」  福家の言葉に、久太郎はあいまいに笑った。  久太郎が今、乗っているライトグリーン色のバイクは、四十年前に最新モデルだった品だ。十七歳でバイクの免許を取って以来、ずっと乗ってきた愛車だが、福家に言わせれば、中古品を通りこして、もはや骨董品の域に達しているという。要はオンボロということだ。まあ、単車に乗ることに反対する両親に一切金を出してもらえず、知り合いにタダ同然で譲ってもらった物だから仕方ない。その時点で、修理に修理を重ねていて、すでに半分以上はオリジナルでなくなっていた。 「お前が乗っている間に、完全に『テセウスの船』(全ての部品が入れ替えられた船が、元の船と同じか否かという、同一性を問う例え)になりそうだな」  エンジン不調を起こしたバイクを初めて持ち込まれた時、福家は呆れた顔で言った。  そして、久太郎に買い替えることを薦めた。物を大事にするのはいいことだが、それも限度というものがあった。  バイクの買い替えを延期した理由はもちろん、晴の存在だった。しばらく久太郎のところで過ごすのなら、当然ある程度の出費がともなう。それに晴の故郷に行くなら、さらに金が必要だ。  久太郎はバイクを買い替えるために貯めていた資金を、生活費や旅費に充てるつもりだった。 「かわりと言ってはなんですが、福家さん。ヘルメットを一つ、買わせてください。友だちと旅行に行く予定なんですけど、その子、バイクのメットを持ってないんで」 「後ろに乗せるの?」 「はい」 「彼女?」 「違います。友だちです」  久太郎は笑って否定したが、内心、少し辟易していた。ガールフレンドの話題は、あまり聞きたくなかった。  福家はシワだらけの顔でニヤつきながら、なお聞いてきた。 「友だちって、女の子?」 「いや、男です」 「本当に? まあ、それならそれでいいさ。ジャンパーは持ってるか?」 「持ってないけど、代わりになるものがあるので大丈夫です」  バイク旅行の計画を進めようとして、一番、懸念されたのは晴の服装だった。安全を考慮すれば、Tシャツとはいかない。  しかし、当の晴が問題をあっさり解決した。 「俺が着ていた飛行服。あれを着ればいいだろう」 「あ、なるほど」  確かに生地は厚手で、防寒性も十分にありそうだ。 「でも、飛行機と違ってバイクは吹きっさらしだよ。大丈夫?」 「は? 何、言ってるんだ。戦闘機だって、風防開けてる時は風をもろに食らうぞ」  八十年前の航空に関して、久太郎の知識は皆無に等しい。  それに気づいて、晴は教えてやった。 「二輪車は走っても、せいぜい時速八十キロくらいだろう。俺が乗っていた三式戦闘機『飛燕』の巡航速度は、時速三百キロ前後だ。戦う時は、五百キロくらいまで平気で出す」 「…とんでもない世界だね」 「最初はみんな、そう思う。でも慣れたら、どうってことない」  ヘルメットは、カタログから選ぶこともできた。しかし、店裏の在庫の中にあった深紅色のヘルメットを久太郎は選んだ。晴に似合いそうだし、サイズもちょうどよさそうだった。 「まいどあり」 「また、来ますね」  久太郎はそう言って、福家の店をあとにした。  オンボロバイクをふかして、久太郎が去って行った後、福家は団扇片手につぶやいた。 「真夏だけど、春だね――青春だ」  ただの友だちのために、わざわざ運ぶのに面倒な布団を荷台に載せたり、新品のヘルメットを買ってやる人間はいない。  久太郎は否定したが、やっぱり女子だろうーー福家はニヤつきながら、高校野球の中継を見るために、店奥の三畳間へ戻った。

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