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第3章②
久太郎は缶コーヒーとパンを四個ほど抱えて、晴のところに戻ってきた。
「お待たせ。適当に買ったから、好きなやつ選んで」
「ありがとう」
晴はあんぱんの袋をとった。
食べ始めてしばらくして、久太郎が聞いてきた。
「緊張してる?」
「…少しだけ」
晴は大したことない、という風に答える。
ついに壱ノ日島へ行く。八十年ぶりの帰郷だ。
何が待ち受けているか、分からない。
もし、晴のことをよく知っている人間が――たとえば兄姉や妹の誰かが、死んだはずの年のまま老いていない晴を見たら、どんな反応をするか。
腰を抜かすか、幽霊のような扱いを受けるのだろうか。
あるいは――ありそうにもないが、歓迎してもらえるだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中で期待と不安が入り乱れ、ぐるぐると巡っていた。
県境を越え、久太郎と晴が乗るバイクは広島県尾道市へ入る。
高速を下りてほどなく、後部に座る晴が久太郎の肩を二回、叩いた。「止まれ」の合図だ。
「この辺り、昔のままだ!」
晴の声は明らかに興奮していた。海岸線沿いの道に出ると、それはいっそう顕著になった。
「島の形に、見覚えがある。ああ。全然、変わってない…」
壱ノ日島へのフェリーは、尾道駅のすぐそばにある港から出ていた。二時間に一本。あらかじめ久太郎はネットで出発時刻を調べ、十一時すぎの便に乗るために、京都を早朝に発っていた。
フェリーは乗用車が四、五台入れば、それで駐車スペースが満杯になるような小さな船だった。久太郎は船員の指示で、バイクを決められた所へチェーンで固定する。
それが終わると、すぐに船が動き出した。
壱ノ日島まで四十分ほどの航路だった。途中いくつかの港に寄ったが、その間、晴はずっとデッキから、海や島々を食い入るように見ていた。
久太郎はその時はじめて、船から見える風景や、潮のまじった風とその香りが、晴を育んだことを強く意識した。
八十年前…ーーいや、晴は十九歳だから、生まれたのはもう一世紀近く前になる。
そんな相手と一緒に旅をして、肩を並べて同じ景色を眺めていることに、久太郎は今更ながら、不思議な縁 を感じずにいられなかった。
フェリーが壱ノ日島の港に着岸すると、乗客たちが一列になって下船し始めた。
久太郎たちを除いて、観光客らしい者はいない。
いずれも島の住民のようで、年齢も四十より下の者は見当たらなかった。
――お年寄りの人が、多いんだろうな。
昨年、四国へわたった時、瀬戸内海の島々は今、どこも高齢化と過疎化が進んでいると久太郎は聞いた。壱ノ日島も例外ではないのだろう。
しかし、晴は気にもしていないようだった。それどころか船を降りると、いてもたってもいられなくなったらしい。バイクを引きずって降りようとする久太郎に、「先に行く!」と言い残して、駆け出していってしまった。
久太郎が止める間もなかった。
久太郎はフェリーのタラップから上陸すると、急いでバイクを始動させ、後を追った。
けれども、行った先は分岐路になっていた。久太郎がそこに着いた時、どちらの道にも晴の姿はなく、煙のように消え去っていた。
…頭上から、太陽が照りつけてくる。
走り始めてすぐ、晴の全身から汗が噴き出てきた。船に乗っている間に、飛行服を脱いでおけばよかったと後悔する。
八十年の歳月の間に、土が剥き出しだった道路はアスファルトで舗装され、港も船も見違えるくらいにきれいになった。見覚えのない新しい建物も、増えた。
それでも、ここは間違いなく晴が生まれ育った島だった。
家へ続く道は、完全に覚えていた。架けかえられたコンクリート製の橋を渡り、島のやや東寄りにある一番、人口の多い集落に入る。庭にキンカンの木が植えられた家で、晴は七人家族で暮らしていた。
あと少しだ。晴は汗を拭って、口元をほころばせた。
あの曲がり角。そこを曲がれば、すぐそこが家だーー。
久太郎が晴を見つけたのは、港を出て三十分近く経ってからだった。
分かれ道で行き止まりの方の道に行ってしまい、その後もオンボロバイクであちこち見回って、時間を食った。
飛行服を着た青年を発見する頃には、暑さに加え、不安と焦りで汗だくになっていた。
細い道の真ん中で、晴は立ち尽くしていた。
昼間で、見通しが良かったのが幸いした。でなければ前方不注意で避けきれず、うっかり轢いてしまったかもしれない。
晴のすぐそばにバイクを停めた久太郎は、その視線の先を辿った。
そこには、何もなかった。
ただ、雑草が伸び放題になった荒れ地があるばかりだ。虻やヤブ蚊が時々、姿を見せる以外、動くものとてない。
人がかつて住んでいたかもしれないが、その痕跡を見出すことは、ほとんど不可能だった。
「ここに、家があったんだ」
久太郎に向かって、晴はうわ言のようにつぶやいた。
「確かに住んでいたんだ。どうして、何もないんだよ。なんで……誰もいないんだ」
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