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第3章④
佐々木が語ったのは、辛く、悲しく、重い、ある一家の戦中と戦後の歴史だった。
鈴木家は、赤ん坊の時に夭折した二人を除いて、五人の子どもに恵まれた。
上から、昌子 、昭一 、亘二 、晴 、明子 と三男二女だ。佐々木の母の話では、仲のよい一家であったという。
アメリカとの戦争が始まると、三人の息子は次々と兵隊に入り、戦地へ向かった。
そして戦争末期のわずか数ヶ月の間に、鈴木家は立て続けに子どもを失うことになった。
最初に戦死の報が届いたのは、次男の亘二だった。乗っていた駆逐艦が沖縄戦で撃沈され、船と運命を共にした。
次が三男の晴だった。志願して陸軍の飛行兵となったものの、B29を迎撃する任務の最中、三重県上空で撃墜されて帰らぬ人となった。
残った長男の昭一も鹿児島で空襲に遭い、千キロ爆弾で手足を千切られ、その日のうちに亡くなった。
とどめは、長女の昌子の死だった。八月六日、嫁ぎ先の広島市に原爆が落とされ、夫や子どもと共に犠牲となった。
…そうして終戦を迎えた時、鈴木家に残った子どもは、末娘の明子だけになっていた。
子どもを四人も失った悲嘆が、一家の主人だった父親の寿命を縮めたのは、間違いない。敗戦から三年後、子どもたちの後を追うように、父親はこの世を去った。
一家の大黒柱を失い、残された母親と明子は、非常に苦しい生活を強いられたようだ。明子が十九歳でひと回りも年上の復員兵と結婚したのは、少しでも母親の生活を楽にしてやりたいという思いからだった。
ところが、この結婚はより悲惨な結果を生むことになった。
明子の夫は、結婚した当初から精神的に不安定で、ことあるごとに妻に暴力を振るった。明子は体のあちこちを腫らしながらも、気丈に耐え、結婚二年目には女の子を出産した。
ところが、その同じ年に心の病を発した夫は、納屋で首をくくって自死した。
夫の家族はその死の責任を明子にかぶせた。妻として至らなかったせいだと、責め立てられ、ついに明子の我慢も限界を迎えた。
一夜、我が子を連れて婚家を逃げ出すと、明子は母の元へ逃げ帰った。
しばらくして夫の家族が怒鳴り込んできたが、集落の人間は最初から母親と明子に同情的だった。佐々木家の主人ーー良正の父も仲裁に入り、ついに正式に離婚することができた。
その後、明子は娘の暸子 と母親を養うために、尾道市内の旅館で働き始めた。幼い我が子は母のもとに預け、島に戻るのは月に一、二度程度だったという。母親は孫を育てながら、細々と畑仕事をして自分たちの食べるものを確保した。
そうして懸命に働き、なんとか暸子を高校までやることができた。
母が亡くなったのは、終戦から三十五年後のことだ。
世の中から、戦争のことが忘れ去られようとする中、母はなお遺骨が戻らなかった二人の息子――亘二と晴の帰りを待ち続けた。しかし、ついに果たせずに終わった。
母が亡くなった後、明子はなお十年ほど、家を残していた。
けれどもすでに、彼女自身が年老いていた。また、島を出て久しかったため、ついに母親の十三回忌が終わった後、生まれ育った家を取り壊す決断を下す。
明子は2000年ごろまで、年に二度、父母兄弟の墓参りのために壱ノ日島を訪れていた。
しかし佐々木が聞くところでは、体調を崩して、今は入院と退院を繰り返す生活だという。
明子は一度目の結婚が破綻した後、再婚しなかった。年老いてからは、娘の暸子の世話になっていたらしいが、この十年ほど、消息は知れない。佐々木家と以前はあった年賀状のやり取りも途絶え、現在どうしているのか、そもそも生きているのか亡くなっているのかさえ、定かでなかったーー。
…話し終えた佐々木は、久太郎と晴に、視力が失われつつある目を向けた。
「私が知っているのは、今話したことが全てだ。あまり、力になれなくて悪いね」
「いえ。お話いただいて、ありがとうございました」
老人に向かって、久太郎は丁重にお礼を言った。顔を上げる時、晴の方をそっと伺う。
晴は何日か前に、自分が死んだことになったと聞かされた。その時よりなお、顔が強張り青ざめていた。
聞いた話を受け止めるだけで精一杯なようで、それすらおぼつかないように見えた。
だから、晴のかわりに久太郎は尋ねた。
「ーー佐々木さん。せめて島を出る前に、この写真を鈴木さんの家の墓前に供えたいんです。差し支えなければ、お墓の場所を教えていただけませんか」
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