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第4章①

「――八十年という歳月の差は、いかんともしがたいね」  平田はそう呟き、久太郎が出してくれたアイスコーヒーの中の氷をストローでつついた。  久太郎の友人はこの日、再び下宿を訪れていた。すでにカレンダーの月は八月に変わっている。晴が現代に来て、十日が経とうとしていた。  やって来た平田は、久太郎の口から壱ノ日島での顛末を聞いた。そして言ったのが、先ほどの台詞だった。 「久太郎君たちが、壱ノ日島を訪れている間にね。私の方も、鈴木君の所属していた飛行戦隊の戦友会を調べてみたんだ」 「戦友会?」 「鈴木君は知らないか。…まあ、当然だな。戦後に作られたものだから」  平田はアイスコーヒーをすすって、説明した。 「どこの国にも、似たような組織があるがね。一般的に、戦後しばらくしてすると、兵士だった人間は、昔の仲間たちと語り合いたいと思うようになるんだ。それで、部隊や出身の兵学校の同期生などの有志で、連絡を取り合って同窓会組織のようなものが作られていく。それが戦友会だ。鈴木君の所属部隊についても、一応存在していたよ」 「本当かい? じゃあ、そこに晴くんの知り合いも…」 「残念ながら、会自体はもう二十年近く前に解散していた。会員の高齢化と死亡による減少でね。まあ、やむを得ないところだ」  平田は対面に座る晴に、気の毒とも取れる目つきを向けた。 「意気消沈する気持ちは、理解できるよ。家族は幸福とは言いがたい亡くなり方をして、君を知っている人間は、すでにほとんどが鬼籍に入っている。唯一、妹さんだけが生きているかも知れないが、それも確実ではない。信頼できる人間がいない中、八十年後の世界で生きていかなければならないのは、心細いだろうし、現実問題として非常に困難を伴うだろう…」 「ここで生きていくかは、まだ決めていない」  晴が、ぶっきらぼうに言った。そばに座っていた久太郎が、思わず晴の方を見る。  長広舌をさえぎられた平田は、薄い色の瞳をすっと細めた。 「おいおい。まさか君、一九四五年に戻る選択肢を、まだ捨てていないのか?」 「ああ、そうだよ」  晴も負けじと平田をにらむ。本当に心底、腹の立つ女だ。 「考えて、気づいたんだよ。俺がこの世界に飛ばされたのは、一九四五年六月二十六日だ。墓石に刻まれていた命日を見たら、兄貴の亘二は四月に死んでいて……俺じゃ、もうどうにもできない。だけど、昭一は七月、姉の昌子は八月に亡くなっていた。如月大尉のマッチを使って、あの日に戻ることができるなら、。あらかじめ、危険を知らせておけば、きっと死ぬのを防げる。昭一の兄貴と昌子姉ちゃん、それに俺が戦争を生き延びられたら、父ちゃんだって、もっと長生きするだろう。明子だって、マシな結婚相手を選べる――全部、今よりずっと、よくなるはずだ!」 「…なるほど。理屈は通っているな」  平田は晴の主張を認めつつも、すぐに反論してきた。 「しかし、それは君が六月二十六日の戦闘を生き延びられればの話だ。忘れたか? 丸山大尉の手記に書いてあったことを。君の乗った戦闘機『飛燕』は撃墜されて、墜落している。戻れば、その通りになる可能性が極めて高い」 「自分がアメ公にやられるかも知れないことは、もう分かっている。気をつければ……」  晴の語尾が細く消える。  米軍機との戦闘を思い出す。  まるでハリネズミのように、機銃で武装した巨大なB-29。  それを援護するアメリカ陸軍の最高峰の戦闘機P-51。 会敵すれば、空はあっという間に、何百、何千という機銃の弾が飛び交う死の空間に変わる。  気をつけていて、どうこうできる次元の話でない。そのことは飛行兵だった晴自身が、一番よく理解していた。  晴は絶望にかられた。手を伸ばせば届きそうなところに、兄と姉を助けられる好機がある。けれども、自分がしくじれば、残った家族全員がロクでもない未来を迎えることになる。  一体、どうすればうまくいくというのだ? 「――…先ほどの続きだが」  平田は強引に話の矛先を変えた。 「鈴木君は本来、この世に存在しない人間だ。当然、戸籍もないから健康保険を作ることも難しいし、働くとしても就ける仕事は自ずと限られてくるーー今はまだ、君が八十年前の人間と知っているのは、久太郎君と私だけだ。しかし、私たち二人の助力だけじゃ、いずれ行きづまるだろう。そうならないために、より多くの人間に、君の正体を明かす必要があると思うが、鈴木君はどう思う?」 「…騒がれるのは、好きじゃない」  晴はそう言って、口を引き結ぶ。もう、この話はしたくないという意思表示だった。  ここで久太郎が、助け舟を出した。 「平田さん。もう少しだけ、時間をくれないか?」 「…そうは言うがね。鈴木君がこの時代に来て、もう十日だ。決断をずるずると先延ばしにしていては、いっこうに前に進めないぞ」 「晴くんにとっては、今後の人生を左右する大事なことだ。決めるのに時間がかかるのは、当然だよ」  久太郎は根気強く、平田に向き合う。 「それに、晴くんがお兄さんとお姉さんを助けたいって気持ちは、痛いくらい分かるんだ」  墓の前で号泣していた晴の姿を思い出す。あのあとも、晴は人目を忍んで何度も泣いていた。  晴にとって、両親や姉兄が、どれほど大事な存在だったかは聞かずとも分かった。  一人っ子で、父母ともそれほど仲がいいとは言えない久太郎だが、祖父の友弥に置き換えれば、容易に理解できる。  晴に現代に残れと言うのは、助けられるかもしれない姉兄を見捨てろと言うのに等しい。  それはあまりに残酷だった。  話しながら、久太郎は会ったこともない曽祖父の如月久弥に、だんだん腹が立ってきた。  晴にマッチを渡して、死ぬ運命から救い出してくれたのかも知れないが。  それと引き換えに、晴はひどく辛い選択を迫られることになった。

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