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第4章⑥

 平田は結局、焼きそばを食べずに帰っていった。久太郎の指摘が、こたえたのだろう。さすがに、バツが悪そうだった。  平田が姿を消した後、晴はすっかりしょげかえっていた。流し台の下にうずくまるその姿に、久太郎は晴の正体を知った日のことを思い出す。  かがみ込む久太郎に向かって、晴が小声でささやいた。 「如月大尉どのはB29と戦って、命を落としたんだ。子どもが…久太郎のじいちゃんが生まれたばかりだった」 「…そうだったね」 「呉葉の言うことが本当なら。大尉どのは意味のない戦いで、死んだことになる。無駄死にしたなんて、そんなのあんまりだ…」  晴は顔を伏せる。  久太郎は途方に暮れたように、天井をあおいだ。それから晴の対面ではなく、肩を並べる形で横に腰を下ろした。  がっしりした久太郎の体躯が、以前よりも強く晴の意識にのぼる。組んだ腕はいかにも力強そうで、ケンカしても多分、体格差で晴の方が負けるだろう。もっとも、そんなことが起こる確率は晴が平田と友人になれるよりも、さらに低いだろうが。  久太郎は気の優しい男だ。そして、誰かと分かり合おうとすることを惜しまない。 「ーーねえ、晴くん。俺は、こう思ってるんだ。この世界のことは、全てどこかでつながっている。何にも影響を受けず、逆に与えずに終わることなんて、一つもないんだって」 「それも、じいちゃんの受け売りか?」 「よく分かったね」と久太郎は笑う。 「でも実はこれ、仏教の『縁起』っていう考え方なんだ」 「『縁起を担ぐ』の縁起か?」 「漢字は同じだけど、実は使われ方が違うんだ。晴くんが言った『縁起』は、吉凶に近い意味だけど、元々の意味はさっき言った通り。この世のあらゆる出来事には、全て原因がある。そして絶えず互いに影響を与え合っているって、意味なんだ。じいちゃんは、物心ついた時に父親がいなかったことが、すごく寂しかったって言っていた。でも、立派な人間だったと聞かされて、父親に恥じない人間にならなきゃならないと思って、寂しさに耐えて頑張れたって。ひいじいさんは若くして亡くなったけど、じいちゃんに影響を与え続けた。それはきっと、如月久弥という人間が、懸命に生きてきたからだよ」 「…」 「ひいじいさんや、晴くんや、晴くんの仲間のおかげで、助かった命もきっとあったはずだ。俺は、そう信じるよ」  晴は、どう答えていいか分からなかった。  ただ、一つだけ確かなことがある。  晴が負の感情を――不安や怒りや悲しみにおびやかされると、久太郎はいつもそれをうまく溶かしてくれる。  晴はほんの短い間、かなうはずのない望みにとらわれた。 ーーずっと久太郎のそばにいたい。離れたくない。  それは如月久弥に抱いていた憧憬とは、また異質な感情だった。  その晩、布団に入ったあと、晴は長い時間をかけて、飛行兵としての自分の体験を久太郎に語った。  『飛燕』と呼ばれる戦闘機のこと。伊丹飛行場の兵舎での暮らし。目をつけられた先輩格の飛行兵に、何度も殴られて恨んでいたこと。その男が特攻隊に選ばれ、旅立つ前夜に「よく戦え」と晴を激励し、複雑な気分になったこと。  そして、久太郎の曽祖父、如月久弥大尉のこと――。  ベッドの上に寝そべる久太郎は、時々、相槌や質問をはさみながら、晴の話に耳を傾けた。  それは軽く二時間を超え、晴が眠って途絶えるまで続いた。  久太郎の家に居候するようになってから、晴がこれほど積極的に戦中のことを話したのは、おそらく初めてだった。今まで、久太郎の方もあえて聞かなかった。おそらく、祖父の友弥の話が、頭に残っていたからだろう。 ――戦争の頃のことをね、話たくて仕方のない人もいれば、口をつぐんで沈黙する人もいた。人それぞれだった――  友弥は物心ついてから、孫が生まれた後までずっと、父親である如月久弥の姿を追い続けた。  記憶に全く残っていない父が、どんな人間だったのか。生前の父を知る人間にあえば、必ずと言っていいくらい尋ねたそうだ。  亡き父について、快く語ってくれた者もいれば、知っているはずなのにほとんど何も教えてくれない者もいた。忌まわしい戦争の記憶を、口の端にのせること自体が嫌な者もいたそうだ。  だから、晴も戦争にまつわる記憶を話したくないのだと、久太郎は思い込んでいた。しかし、実際に晴が語るのを聞く間、その言葉の端々に、声にならない想いがにじみ出ているように、久太郎には感じられた。  話を聞いてほしい。知ってほしい。理解してほしい――。  どうか、自分という人間を受け入れてほしい、と。  …久太郎はそっとベッドから抜け出し、晴の枕元に膝をついた。  布団を入手した夜から、雑魚寝はやめた。今は別々に寝ている。自分が抱く劣情を晴に悟られないためで、その判断は正しかったと思っている。  けれども、この時だけは、晴にもっと近づきたいと思った。 「――もう十分だよ、晴くん」  久太郎は小声で語りかける。  少年の名残をとどめる晴だが、寝ている時はいっそう幼く見える。八十年前からやって来た飛行兵の青年は、大学生の久太郎よりさらに若い。本来なら、まだ酒もタバコもやれない年だ。その若さで、破壊と死が日常となった世界に身をおいて、自分をすり減らしながら飛び続けた。 「過去に戻らなくていい。戦わなくていい。たとえ、大切な人を助けるためだとしても、君が死ぬような真似をしたらいけないよ」  晴のことを知れば知るほど、久太郎の中で守りたいという気持ちが強くなっていった。

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