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第4章⑦
それからの三日間は、表面上は穏やかに過ぎていった。
久太郎は連日、アルバイトに忙殺された。学習塾の夏期講習で、中学生相手に古文を教えている。晴のこともあり、本当は断りたかったのだが、講師の数がギリギリなため、どうしても出ざるを得なかった。
久太郎がいない間、晴は家事や読書をして過ごした。特に、久太郎の部屋にある太平洋戦争について書かれたものをむさぼるように読んだ。読み尽くすのは時間の問題で、それに気づいた久太郎は、「大学の図書館で、興味がありそうなのを借りてくるよ」と約束してくれた。
晴は時々、気晴らしに外へ出かけることもあった。もっとも、暑さに耐えられず、大抵、短い時間で戻ってきたが。久太郎は毎日、晴のためにいくばくかの金をおいていったが、ムダ遣いするのは気がひけた。
それでも一日だけ、晴は地下鉄に乗って京都駅まで足を伸ばした。
新幹線の停車駅である京都は、複数の在来線、それに私鉄と地下鉄が連絡しているターミナル駅だ。呆れるくらいに巨大で、晴は何度も道に迷いそうになった。道行く人の数も膨大で、すれ違う人間の半分以上が日本語以外の言葉を話し、その多くが巨大なリュックサックや取手と車輪のついた旅行鞄を引きずっていた。
めまいを覚えそうな人混みと騒音を避け、晴はターミナルに付設する階段広場に腰を下ろした。持参した水筒を開け、麦茶の半分くらいを一気に飲み干す。
そのまま日に焼かれながら、晴は行き交う人々をぼんやり眺めた。
何百、何千という人間がいるが、皆、はっきりとした目的地を目指して歩いているように見える。それがないのは、自分くらいかも知れない。そう思うと、気が滅入った。
八十年後の世界にきて、まだ二週間かそこらしか経っていない。
それなのに、自分が元いた場所が、日常が、確実に遠ざかって、おぼろげになってきている。
そして一日経つごとに、「帰る」という決心が鈍くなっていく気がした。認めるのも嫌だが、平田の言う通りかもしれない。決断を先送りにすると、ろくなことにならない。
晴は首から下げた薄手の巾着袋を、手のひらに載せた。そこに、元いた時代に戻る切符が――如月久弥がくれた、あのマッチが入っている。
その気さえあれば、今この場で火をともして過去へ帰れる。たとえ我が身に危険が及ぶとしても、姉と兄を救えるのなら救いたい。その気持ちは間違いなく本物だ。
なのに、まだぐずぐずと迷っている。
死ぬことへの恐怖だけでなく、今はそこに、久太郎に対する断ちがたい未練が加わっていた。
「…バカだな、俺は」
晴はつぶやいた。どんなに望んでも、久太郎とずっと一緒にいられる未来なんてあり得ない。久太郎が好意で設けてくれた時間は、彼の夏休みが終わるまで。その時が来れば、元いた時代に戻る、戻らないに関わらず、別れなければならない。
眼下では、相変わらず無数の老若男女が歩いている。暑さはひどいが、それでもどの顔もなぜか楽しげに見える。
あの平和な景色の中に、久太郎と一緒に溶け込めたら、どんなにいいだろうと、晴は思った。
駅の地下街やその周辺をぶらついて、晴が家に帰る頃には夕方になっていた。
合鍵を使ってドアを開けると、先に帰っていた久太郎が晴に気づいて、にっこり笑った。
「おかえり」
「…ただいま」
ぎこちないながらも、晴も笑って応えた。
晴が手を洗っている間に、久太郎は麦茶とようかんを用意してくれた。ようかんはこの前、平田が手土産に持ってきたものだ。晴が食べ始めると、対面で久太郎も同じように食べ始めた。
「京都駅はどうだった? 面白いお店とかあった?」
「ああ。スマホとか、パソコンとか、他にもいろんな機械を売ってる百貨店があった。見てて飽きなかったけど、人がめちゃくちゃ多くて、そこだけは辟易した」
「あそこは、いつも観光客が絶えないからね。晴くん、人混みは苦手?」
「あまり好きじゃないけど、苦手ってほどでもない」
「じゃあ、花火は興味ある?」
「花火?」
「うん。明日の夜、琵琶湖で花火大会があるんだ。行かないかって、誘われてるんだけど…」
「誰に?」
「平田さん」
「……」
「気が進まないようなら、俺から断っておくよ」
「…いや、行く」
晴の返事が、久太郎には意外だったようだ。
「本当にいいの?」と念押しされ、晴はうなずく。
あの時は腹が立って仕方なかったが、大分、時間も経った。今はもう、さほど怒りもない。
まあ、平田本人にあったら、また再燃する可能性はゼロではないが。
ーー呉葉は、明子を探し出せると言っていた。
久太郎もあいた時間を使って、晴の妹の明子とその娘の捜索を続けてくれている。SNS――インターネットに載せる日記のようなものらしいーーをたどり、岡山市内の老人養護施設について書かれたものを調べている。しかし中々、うまくいかないようだ。
だからこそ、余計に平田との関係を断つわけにはいかなかった。
ようかんを食べ終えた久太郎は、スマホでメッセージを送りにかかる。
しばらくして、その表情が曇ったことに晴は気づいた。
「どうした? 向こうがやっぱり嫌だとでも、言ってきたのか?」
「え? …ああ、平田さんの方が大丈夫だよ。ただ、ちょうど別の人からメッセージが来てて…」
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