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第5章①
「…髪。けっこう伸びてきたな」
洗面所の鏡に映る己の姿を見て、晴はつぶやいた。
伊丹飛行場の兵舎にいた時は、この長さになる前に隊の仲間に頼んで切ってもらっていた。逆に晴の方も、仲間の髪を切ることがあった。残念ながら、除隊後の職業として散髪屋を選ぶべきでないと分かるくらい、ひどい腕前だったが。
晴が洗面所から出てくると、ちょうど久太郎がちゃぶ台の前に座っていた。えらく真剣な顔つきで、硯に墨汁を注いでいく。
それから、毛筆を手に半紙に向かって、一気呵成に何やら書きつけた。
力強い字体で書かれた二文字は――「禁酒」だった。
「…守れるのか?」
晴が尋ねると、久太郎は厳粛そのものの表情でうなずく。
「決めたんだ。もう、二度とお酒は飲まない」
「そこまで深刻にならなくても、いいんじゃないか。呉葉も言ってただろう。酒を飲ませた親父さんにも、非があるって」
花火大会の翌朝。素面に戻った久太郎は、晴の口から事の次第を聞かされた。
その後、様子を見にきた平田に向かって、晴でさえお目にかかったことがないくらい美しい土下座をやってのけた。
「…お酒のせいで、平田さんに迷惑をかけるのは二回目なんだ」
「らしいな」
「三度目があったら、いいかげん縁を切られちゃうよ」
それはどうだろうかと、晴は疑った。平田は久太郎を唯一の友人と言っていた。嫌味や皮肉を言いながらも、飲酒の失敗くらい許す気がする。
しかし、久太郎本人の決心は揺らがないようだ。墨が乾くと、壁の一面のよく見えるところに、紙を画鋲で貼り付ける。
その後ろ姿を眺める内に、晴の頭の中で、花火を一緒に見た夜のことがよみがえる。
――この時代にずっと残ってほしい――
――晴くんがいなくなったら、俺は嫌だ――
思えば、あの時が初めてだった。久太郎が晴に「帰るな」とはっきり願ったのは。
あれは本心だったのか? …酔って自制心がいつもより効きにくくなっていたことを考えれば、多分そうだろう。
久太郎のその言葉と前後の態度は、晴の心を悩ませ続けていた。
どういうつもりで、晴に残ってほしいと言ったのか。
優しさや、同情からか。それとも…もっと他の感情からか?
分からない。けれども、久太郎本人に真意を聞くのも、はばかられる。
人知れず悩む晴は、全く関係のないことを口にした。
「ーー京都の大文字焼きってさ。盆明けにやるんだろ。ここからでも、見えるのか?」
「あー…下宿の窓からは、無理だね。でも、外に出たら一番近い山の文字が見えるよ」
京都の人間は「五山送り火」と言うのだと、久太郎は豆知識を披露する。
「亡くなった人の魂が、お盆に帰ってくるから。それを送り出すための行事だよ。その時になったら、一緒に見ようね」
久太郎は軽くあくびをした。
「明日は、色々と忙しくなる。ちょっと早いけど、もう寝ようか」
「…そうだな」
久太郎の態度は、以前と変わらない。そのことに、晴はひそかにほっとする。
――やっぱり、聞かない方がいい。
あの夜、久太郎はだいぶ酔っていた。自分の言動を、ろくに覚えていない可能性すらある。むしろ、その方がいい。
自分でも、臆病だと思う。しかし、下手に詮索して、その結果、久太郎に嫌悪感を持たれるくらいなら、今の関係のままでいる方がマシだった。
…あの夜の真相に、晴が気づくことはなかった。
酔っ払って、色々と記憶が抜け落ちていたが、久太郎は晴に言ったこともしたことも、全部覚えていた。そして素面に戻ってから、自分の抱く恋心に気づかれるのではと、晴以上に戦々恐々としていた。
ーー抱きつくなんて、どうかしていた。
明らかに、友人の域を超えた行動で、酔いの勢いがあったからこそ、やってしまったことだ。
幸か不幸か、晴はそのことについて一言も触れず、久太郎におかしな態度を取ることもなかった。だから、久太郎も同じやり方で晴に接することを選んだ。
久太郎は、「禁酒」と書いた紙を見つめる。
また酒を飲んだらーー今度こそ、超えてはいけない一線を踏み破ってしまうかもしれない。
そうならないためにも、絶対に飲まないと、久太郎は固く心に誓った。
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