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第5章⑮
その後も電気は一向に回復しなかった。
脱衣場の扉の前で、晴は久太郎が入浴を済ませるのを待った。中の様子が気にはなるが、昨日の今日だ。のぞき見して、久太郎が抱いているかもしれない疑いを、深めるようなことはしたくなかった。
ただ、暗いとその分、いつもより音や気配に敏感になる。
聞く気はなくても、久太郎がシャツやズボンを脱いで、風呂場の戸を開ける音や、かけ湯して湯船につかる様子が伝わってきた。
「どうだ? 懐中電灯の灯りでなんとかなりそうか?」
「うん。大丈夫」
脱衣所ごしに、返事が返ってくる。
「暗くて不便だけど。これはこれで、風情がある」
「そうか」
「この家のお風呂に入るのも、これが最後かもしれないね…」
「……」
お湯をすくい上げる音が、タイル張りの浴室から響く。
「ねえ、晴くん」
久太郎の声がする。
「せっかくだから。お風呂、一緒に入らない?」
晴が言われたことを理解し、反応するまで三秒ほど必要だった。
「いや……なんで?」
「…なんとなく」
久太郎の申し出は魅力的で、それだけに晴にとって危険だった。
好きな相手の裸を見て、身体がろくでもない反応をするのは目に見えていた。
「――やめとくよ」
晴は言った。
「一日に何回も入ったら、湯あたりしそうだ」
「……分かった」
しばらく、沈黙が続く。やがて湯船から久太郎が上がって、体を洗い始める音が伝わってきた。
「――スマホも使えないな」
「電気と一緒に、通信関係も雷でやられちゃったのかも。元々、このあたり、天気が荒れるとネットがつながりにくくなってたから」
久太郎が風呂から上がった後、二人はまた和室に戻っていた。
晴は充電していたスマホで、メッセージアプリを起動させる。平田から新しい報せは入っていない。向こうが送ったとしても、こちらの受信状況が改善するまで、確認は無理そうだ。
外の雨風は、強まりこそすれ、弱まる気配がなかった。
「寝るにはまだ早いな」
「そうだね。まだ九時だ」
「こんなことになるなら、酒でも買っといたらよかったな」
「だめだよ。晴くんは未成年だし、俺は禁酒した」
「そんなもん、別に三日坊主でいいだろ」
「よくないよ――誰か飲むかと思って、ジュースとコーラ、一本ずつ買ってある。それと父さんたちが持ってきてくれたお供え物のお菓子があるから。一つ、下げさせてもらって食べよう」
こうして二人で仏間の座卓に移動し、酒抜きのささやかな打ち上げを始めた。
久太郎は香料入りのキャンドルを持ってきて、座卓の上に置いた。
「ばあちゃんがじいちゃんとお寺巡りをしてた時、あちこちで買い込んでたんだ」
火を灯すと、小さな炎で部屋がぼうっと浮かび上がる。同時に、お香のような匂いが漂ってきた。
菓子を食べ、たわいない話で時間をつぶす。
そうやって暗い仏間で久太郎と向き合う内に、晴は不思議な気分に包まれてきた。
ここが昭和二十年の日本で、異なる時代に迷い込んできたのが晴ではなく、久太郎のような錯覚に陥る。
そういえば、空襲警報を随分、長く聞いていない。「飛燕」の発動機が奏でるプロペラの音も。会敵寸前の吐きそうな緊張感も、味わっていない。
明日、死ぬかもしれない恐怖を、ここしばらく晴は忘れていた。
もしも逆の立場だったら。八十年の時を超えてきたのが久太郎の方で、晴が戦闘機の搭乗員のまま、B―29と戦い続けていたら――。
きっと、とっくに気持ちを打ち明けて、抱いてくれと久太郎に頼んでいた。
好きな相手と一刻でも結ばれるのなら、死ぬその時に、少しは慰めになるだろうから。
「――…晴くん?」
久太郎に呼ばれ、晴は我に返る。少し、ぼんやりしていたようだ。
「眠い? そろそろ十時半だけど」
「ああ…」
久太郎が気遣わしげにこちらを見つめる。手を伸ばせば、あっさり届く距離で。
酔っていたわけでもないのに、晴は衝動的に久太郎の頬に触れた。
自分の抱える気持ちを、全部吐き出してしまいそうになる。しかし、久太郎の驚く顔を見て、寸前でこらえた。
「――やっぱり似てるな。如月大尉どのに」
そんな言葉でごまかして、晴は手を引っ込める。
それから、ろうそくの炎を見るふりをして、目をそらした。だから、気づかなかった。
久太郎が一瞬、悲しげに顔を歪めたことに。
昨日と同じ手順で布団を敷いて、蚊帳を吊った。
火の始末をしっかり確認し、晴と久太郎は並んで布団に入る。
「明日には回復しているといいね。天気も、電気も」
「そうだな」
晴はそうつぶやいて、目を閉じた。自分で思っていたより疲れていたらしい。
久太郎と会話らしい会話も交わさない内に、自然と眠りに落ちていた。
次に目をあけた時、あまりに暗くて、まだ眠りの続きにいるような気がした。
「――…?」
なぜか、身体がムズムズする。こそばゆい。うめきかけた時、不意に誰かの指が晴の身体を撫で回しているのだと気づいた。
戸締まりはしっかりした。家の中には晴と、もう一人しかいない。
久太郎以外に、あり得なかった。
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