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第6章①

 行為の最後――挿れるところまでは、しなかった。  しかし、その手前の行為は全部やったんじゃないだろうかと、晴は思った。  気づくと、外が明るくなっていた。雨音も止んでおり、どうやら風雨は夜のうちにおさまったようだ。  蚊帳の中は、嵐が過ぎ去った直後のような惨状だったが。  晴も久太郎も、服はおろか下着すら身につけていない。むつみ合っている最中に力尽きて、寝落ちしたのだ。夏だからまだよかったが、冬だったら二人そろって風邪をひいてただろう。  互いに流した汗や体液で、シーツがべっとり濡れている。洗濯必須である。  晴が目をこすり、身じろぎすると、抱きついていた久太郎が目を覚ました。 「…おはよう。晴くん」 「…おはよ」  久太郎の顔を目の前にした晴は、愛おしさが込み上げてきた。がっちりした相手の胴に腕を回して言った。 「あー…よかったよ。昨日の夜のやつ」 「本当? 怒ってない?」 「全然」  晴は笑ってしまいそうになる。 「さすがに、朝っぱらからする気にはならんが」  晴は目を閉じる。抱き合っているのが心地よくて、二度寝したい誘惑に駆られる。  けれども、さすがにそろそろ服くらいは着るべきだろう。 「風呂の残り湯。そのままだよな」 「うん。多分、ぬるくなっちゃってるけど」 「暑いから、かまわない。…一緒に入るか?」  それを聞いて、久太郎がクスッと笑った。 「うん。入ろう」 「――ああいうこと。今まで、誰かとしたことあったか?」  シャワーを浴びながら、晴は思い切って尋ねた。久太郎が言葉を濁したなら、追求する気はなかった。しかし、久太郎は正直に話してくれた。 「…大学院の先輩と。向こうが院の二年生で、俺が学部の一年生の時」 「きっかけとか、あった?」 「その(ひと)が、大学図書館のカウンターでバイトしてたんだ。何度も会ううちに、向こうから声をかけてきた」  ちょうど、夏頃に始まった関係は何ヶ月か続いた。  しかし、相手が修士論文で忙しくなり、さらに久太郎が祖父を亡くした打撃で、しばらく連絡をしなかった結果、自然に疎遠になっていった。 「先輩は大学院を出て、東京で就職した。以来、会ってない」 「ふうん」  晴はシャワーを止める。久太郎が湯船の中で足を縮めてくれたので、空いたスペースにつかった。 「晴くんの方は、経験ある?」 「一応……でも、挿れるところまではしてない」 「…相手、ひいじいさん?」 「んなわけないだろ」  恐い顔で、晴は否定した。 「少年飛行学校で、たまたま同じ班になったやつに誘われて、二、三回した。卒業後は俺が戦闘機班に、相手が重爆班に進んで、それきりだ」  その言葉を聞いた久太郎が、ぬるくなった湯をかいて、晴の方に身を寄せる。  久太郎からしてきた口づけは優しくて、甘すぎるくらいで――身体の内側が、濡れた砂糖菓子みたいにぐずぐずになりそうだった。 「――これきりじゃないよね?」  久太郎が懇願する眼差しを向けてくる。  晴は即答できなかった。  昨日の夜だったら、何も考えずに久太郎に好きだと言えた。  けれども、朝日を浴びた今は、余分に頭が回ってしまう。  久太郎と関係を続けることが何を意味するか、晴は十分すぎるくらい理解していた。  この時代に残り続けるということ。元いた昭和二十年の世界と、決別するということだ――。  久太郎と一緒にいることを、切望している。けれども、決断はくだせなかった。 「…多分」  晴は、それくらいのことしか言えなかった。  風呂から上がって和室へ戻ると、晴のスマホが「春の小川」のメロディを奏でていた。電話の着信だ。画面を見るより先に、かけてきた相手について、予想がついた。 「――やあ。昨日の夜から既読がつかなくなっていたから。心配のあまり、早朝からかけてしまったよ」  案の定、平田だった。 「まだ寝てたか?」 「いいや。少し前に起きた」 「そいつはけっこう。久太郎君と楽しく過ごせたかい?」  平田のセリフに、晴の脈拍が上がる。しかし、平田はとりたてて勘ぐっている訳ではなく、単に挨拶がわりに言っただけのようだ。  その証拠に、すぐに晴に向かって用件を切り出してきた。 「君の態度から察するに。私が送ったメッセージを、まだ見てないな」 「ああ。昨日、このあたり停電で、スマホも使えなくなってたから…メッセージって?」 「昨日、倉敷市でトツカリョウコさんと会ってきた」  平田が会ったと言う相手に、晴は聞き覚えがなかった。  平田はすぐに補足してきた。 「結婚前の苗字は、鈴木だ」  平田がゴロゴロと喉を鳴らす音が、スマホごしに聞こえてきた。 「そうだよ。君の妹である明子さんの娘、暸子さんだ。そして朗報だ。明子さんの所在が分かった。しかも、まだ存命している」

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