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第6章④

 明子は耳も目も、かなり弱くなっていた。久太郎と晴がわざわざ京都から来たと、暸子が説明する間も、二度、三度、「んー?」と聞き返した。 「写真の持ち主がね、ここにいる如月久太郎さんと晴さんのひいお祖父さんじゃったの。わかる? …久太郎(きゅーたろー)さんと晴さんよ! 偶然じゃけど、お母ちゃんの死んだお兄さんと、同じ名前の『晴』さんよ。二人のひいお祖父さんが、晴さんの上官さんだったの…――」  聞いていた明子は、そこで思いがけないことを言った。 「ご兄弟のー、晴さんはどっち?」 「…俺です」  晴が答えた。明子が顔をよく見たがったので、枕元へ近づく。  老いた妹の姿を正視するのは、それだけで気力が必要だった。  末っ子の明子は小さい頃、ずっと晴の後をついて回っていた。お転婆で、ウサギみたいに四六時中飛び回り、障子を破った時には、父親と母親の両方からゲンコツを食らって大泣きした。泣いている妹をうるさいと思いながらも、晴は外に連れ出して、一緒に散歩して気分を晴らしてやった。  晴が壱ノ日島を旅立つ日には、港まで見送りに来てくれた。晴がわずか数日、帰郷すると、もうそんな年でもないのに、妹は小さい時みたいに並んで寝たがった。  快活で、表情がコロコロ変わり、泣いたり笑ったりしていた明子。  その妹が、苦労ばかりの人生を送り、病を患って、今まさに死を迎えようとしている。  …明子は、晴の後ろに立つ自分の娘に言った。 「暸ちゃん。アタシ、晴さんと、話したい」  暸子が、困惑した顔になる。晴はかまわず、「大丈夫です」と言った。  気をきかせた平田が「下の自販機でお茶でも買ってくるよ」と、暸子と一緒に病室を出る。  その場に、晴と久太郎だけが残された。  明子はひなたぼっこをする亀のように、しばらく動かなかった。目が開いていなかったら、眠ってしまったかと疑ったかもしれない。  しかし、やがて口を動かして、つぶやいた。 「――晴にいちゃんよね?」  晴は目を見張った。明子は、はっきりと言った。 「晴にいちゃんでしょ。そうでしょ。分かるよー、アタシ」  ポツッと、病室のリノリウムの床に水滴がはじける。  晴は泣きながら、痩せて枯れ木のようになった妹の手を取った。 「ああ。俺だよ、明子」 「この年まで生きとるとねー。不思議なことも、あれこれ、あるんよ」  ゆっくり、ゆっくり。ひとこと、ひとことをかみしめるように、明子は言った。  歯の欠けた口から発せられる言葉には、聞き取れないところも少なくない。それでも、妹の言うことに晴は懸命に耳を傾け、あいづちを打った。 「この前は、昭にいちゃんが来たよ。海軍さんの、真っ白な軍服のまんまで、格好良かった」  長兄の昭一は、とうの昔に鬼籍に入っている。そのことを晴はあえて指摘しなかった。 「そうか、そうか。昭兄ちゃん、元気そうだったか?」 「そうね、元気そうだったー。きっと、アタシもお迎えが、近いんだよ。だから、さみしくないないように、こわくないように、来てくれたんだ」  晴は言葉を失う。弱りきった外貌もあって、明子は夢と現実の間を生きているのだと思っていた。だが、周囲が思っているよりずっと、頭の中は明晰なのかもしれない。 「…明子。お前に、土産を持ってきたんだ」 「なあに? お菓子は、だめよ。暸子や、看護婦さんに、しかられるけん」 「食べ物じゃない」  晴は持参した紙袋を開けて、中身の一つを明子の手のひらにのせた。  それはつまめるほどの大きさの、陶器でできたウサギの人形だった。 「あらー。かわいらしい」 「ウサギ。好きだったろ」 「えー。好きだったって、それ、小さい頃のことでしょ」 「何、言ってる。俺が島を出る頃、まだ集めてたはずだ」 「ない、ない。もっと昔よー…でも、ありがとう」  その時、病室の戸口から暸子が顔をのぞかせた。心配そうにこちらを見る。久太郎は、晴と明子にひとこと断って、暸子の方へ近づく。  明子の娘は、病室を出たところで久太郎に尋ねた。 「あの。母は、あなたの弟さんのことを…」 「…亡くなったお兄さんだと思って、話しています」 「やっぱり」暸子は深々と息をはいた。 「ごめんなさいね。母は認知症も出ていて…いいかげん、やめさせないといけないわね」 「いいえ。気が済むまで、話をさせてあげてください」  久太郎は晴たちの方を振り返る。 「せっかく、お兄さんと会えたと思っているんですから」 「でも、弟さんに悪いわ」 「晴くんなら、大丈夫です」  久太郎は言った。 「きっと彼の方も、それを望んでいますから」

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