61 / 87
第6章⑥
「ーー壱ノ日島の家を取り壊すと決めた時、母はつらそうでした」
ナースステーションの近くに、見舞い客用の休憩所が設けられている。そこに置かれたソファに、久太郎と平田、それに暸子の姿があった。
自販機で買ったペットボトルのお茶を握りしめ、暸子は自分の故郷のことを客人たちに語った。
「母にとってあそこは、自分が生まれ育った場所だったから。でも祖母が亡くなった後、母も私も島に戻るつもりはなかった。私は結婚していたし、母も…本土に家があったから」
「お気持ち、理解できる気がします」
久太郎は言った。
「俺の祖父母の家も今、似たようなことになっています」
「そうなの? 失礼だけど、お住まいはどちらなの?」
「三重の山奥です。小学校の頃、長い休みになるといつも、祖父母の家で過ごしていました。思い出が、たくさんあるんですが…今のままだと、つぶすことになりそうです。父も、叔母も叔父も県外に住んでいて、管理するのが難しいですから」
「…確かに、うちと似ている」
休憩所の前を、薄青色の制服を着た看護師が通りかかる。久太郎が軽く会釈すると、向こうも心持ち頭を下げた。
スマホを見ていた平田が、顔をあげて言った。
「ところで久太郎君。君と鈴木…じゃない。弟君は今日、どうする予定だい? こちらに泊まるか、それともまた京都に戻るのかい?」
「実はまだ決めてないんだ」
久太郎は答えた。晴の気持ち次第だ。
もし明子と積もる話があるのなら、泊まるつもりでいた。
その時、暸子が独り言のようにつぶやいた。
「家を取り壊したこと、本当は私、後悔しているの」
自分の母親と、晴がいる病室の方を暸子は見つめる。
「母が決めたことだから。口をはさむべきじゃないと思ったし、壊さなければ朽ち果てていくだけだったでしょう。でも…あの家がもう存在しないと思うと、ひどく寂しくなるのーー家と一緒に、あそこで過ごした時間や思い出も、失くなってしまったような気になって。私自身が、残すための努力をもっとすべきだったと、今では悔いているわ」
晴と久太郎、それに平田は、病院の出口で暸子と別れた。
別れ際に、暸子は改めて三人に頭を下げた。
「本当にありがとうございました。晴さん、母に話を合わせてくれてどうもありがとう」
暸子は三人を夕食に誘ったが、久太郎が丁重にその申し出を断った。晴や平田と相談して、結局、そのまま京都へ戻ることを選んだからだ。
久太郎と晴がバスで帰るつもりと聞いた平田は、わけもなく提案した。
「だったら、うちの車に乗って帰るといい。久太郎君のアパートの前まで送っていくよ」
「いいのかい?」
「そっちの方が、交通費の節約になるだろう。それに京都を経由しても、うちまでの帰宅時間にそう差は出ないよ」
という訳で、久太郎たちはありがたく、平田の車に同乗させてもらうことにした。
平田は今回の倉敷行きにあたって、運転手つきの車で来ていた。娘が外泊すると言い出した際、父親が出した条件が、家の車を使うことと、お目つけも兼ねて父親の秘書の一人(女性)を、運転手として同行させることだった。ちなみに、平田本人は自分で運転する気だったが、免許を取ったばかりという理由で、それは許可が下りなかった。
国産セダンの後部座席に晴と久太郎が並んで座る。平田は助手席へ腰を下ろした。
車に入ってすぐに気づいたことだが、後ろと前の座席の間には、開閉可能な薄い仕切りが設けられていた。
「ウイルス対策の名残かい?」
久太郎が何気なく聞くと、平田が意味深な笑みを浮かべた。
「害をもたらす事態を防ぐ、という意味では似たようなものだな――政治家 やその同業者の会話を、運転手や秘書に聞かれないようにする装置だよ。昔、運転手の一人が車内の会話を他所で漏らして、少々面倒な事態になったことがあったらしいのでね」
平田の話では、問題の運転手はクビになったとのことだった。
姫路を過ぎたあたりで、平田は助手席で寝入ってしまった。だいぶ、疲れがたまっていたらしい。
それに気づいた晴が、何気ない仕草で開いていた仕切りを閉める。
それから、不意に久太郎の方に頭を寄せてきた。
ともだちにシェアしよう!