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第6章⑧

 次に晴が目を覚ました時、久太郎はすでに起きて朝食をとっていた。  マグカップでコーヒーを飲んでいた久太郎は、晴が起きたのに気づいて微笑する。 「おはよう。よく寝ていたから、起こさずにおいたよ」 「だいぶ明るいな。何時だ?」 「朝の九時半」 「うわ。寝過ぎた…」 「コーヒー飲む?」 「ああ。でも、自分でやる」  晴はあくびをしながら、寝床から立ち上がった。久太郎とのやりとりは何度も繰り返して、もう日常の一部となりつつある。お盆前なら、久太郎は二日に一度くらいの頻度で学習塾のアルバイトに出かけ、その間に晴が家事を片付けていた。 「明日から、またバイトか?」 「うん。受験生の立場だと、お盆はあってないようなものだから」  コーヒーとパンを持ってきた晴に、久太郎は言った。 「今日、ちょっと実家に行ってくるね」 「今からか?」 「うん。実家に昔、俺が着てたやつで、晴くんが着られそうな服があるから。それを取ってくるよ」  今、晴が着ている服は、半分くらいが古着屋での購入品で、半分は久太郎の私物だ。前者はともかく、後者は若干、晴には大きすぎる。だから時間がある時に、昔の服を持ってくると久太郎は前に一度、言っていた。 「夕方には戻るよ。向こうを出発する時、スマホにメッセージを送るか、電話するから」 「了解」  晴は答えた。久太郎の言葉を、そのまま受け取って疑わなかった。  バイク用の服に着替えた久太郎を、晴は玄関まで見送りに行く。ヘルメットを手にしようとして、久太郎は急に晴の方を振り返る。  忘れ物でもあったかと、晴が思いかけた時、出し抜けに久太郎に抱き寄せられて、キスされた。  けっこう長く吸われた。あと何秒か続いていたら、身体に火がついて朝から久太郎を布団に引きずっていったかもしれない。  そうなる寸前、久太郎の方から顔を離した。晴は渋い表情を作って言った。 「…こういうの、毎日するのか?」 「嫌かな」 「嫌じゃないけど」 「じゃ、しよう」  久太郎が珍しく、いたずら小僧みたいな笑い方をする。それから、ヘルメットを手にして、今度こそ出かけていった。  ドアが閉まった後、晴は独りごちた。 「…うわついてるな」  もっとも、それは晴の方も同じだった。洗面所の鏡を見たら、しまりのない自分のマヌケ面が笑い返してきた。    晴が思っているほど、久太郎はうわついていなかった。バイクを走らせ始めて十分もすると、ヘルメットの下の顔がいつも以上に引き締まってくる。自分が軽く緊張していることを、久太郎は自覚していた。  けれども、自分がすべきことに背を向けて、逃げ出すわけにいかなかった。  マンションの来訪者用の駐車スペースに、久太郎はバイクを停める。  実家の鍵は今も持っている。それでも、入り口のオートロックの機械に部屋番号を打ち込んで、自分が来たことを父親に伝えた。  七階にある自宅は、前に来た時とほとんど変わっていなかった。  実質、一人暮らしをしている父親は休日にきちんと掃除をしているらしい。荒れた様子はない。むしろ、妻や息子がいた頃より、どの部屋も大切に扱われている印象を抱かせた。  リビングに行くと、母がいた頃に物入れにしまい込まれていたレコードプレーヤーが、然るべき場所に鎮座していた。中をのぞくと、久太郎が来る直前まで聞いていたらしいレコードが、置かれたままになっていた。 「――急に電話してきて。話したいことがあると、言っていたな」  父親の声で、久太郎は我に返る。久紀はソファに座った息子の前に、冷たい茶を入れたガラスコップを置いた。麦茶かと思って、久太郎がすすったら何やら薬みたいな味がした。数年前から流行しているルイボスティーを、久紀は割と好んで飲んでいる。けれども久太郎はいつまでもその味になれなかった。  思えば、父親と久太郎とで好みや興味が合ったためしがなかった。これほど共有できるものがない親子というのも、逆にめずらしいかもしれない。  いっそ他人同士であれば、もう少し父親との関わり方も建設的なものになれたのかもしれないと、久太郎はらちもないことを思った。  対面に座った父親に、久太郎は意を決して切り出した。 「じいちゃんとばあちゃんの家。毎年、維持費がどれくらいかかりそうなの?」 「なんで、そんなことを聞くんだ」 「いいから、教えて」 「…家は古くて価値はない。固定資産税は土地だけにかかっている。毎年、八万かそこらだ。それから電気と水道をまだ契約したままだ。基本料金だけで、年に二万くらいにはなる」 「じゃあ、年に何度か行って水道と電気を使ったとしても。十二、三万あれば足りるって、思ったらいい?」 「そうだな」  久紀は淡々と認める。  久太郎はテーブルの下で、両手を握りしめた。 「そのお金、俺が毎年出す。だから、じいちゃんとばあちゃんの家、売らないでほしい。あと、お墓もそのまま残してくれないか」

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